― 思い出して/思い出したい ―
「坊ちゃん」
「っ!僕に触るな!」
シエルは伸びてくる手を思いっきり叩く。
しかし、悪魔の正体を露わにした手は退くことなどなく、そのままこちらに向かって伸びてくる。
狭いベッドの上を逃げるようにあとずさるが、すぐ背は壁についてしまう。
「おや、もう逃げないのですか?」
弧を描いた口で発する音は、執事の時とは全く違う。
瞳は紅く輝く獣の光を放つ。まさに魂を狙う悪魔の姿。
けれどセバスチャンが今求めているのは魂ではない。
「このままだと、貴方の身体を貪ってしまいますよ?」
シエル自身なのだ。
「どうして、急にこんな・・・」
逃げることが出来なくなったシエルは、せめてもの抵抗と思い強く睨み挙げる。
どうせ力でも敵うことはないのだから。
「別に急にではございません」
セバスチャンの手は、シエルの足首を掴んでくる。
咄嗟に自分の方に足を引っ張るが、やはりびくともしない。
掴んでくる手を叩いても同じこと。
「その気持ちはずっとあったのです」
するりと、その手は這い上がり太腿を撫上げていく。
ゾクリとした感覚にシエルは眉を寄せ、口から漏れ出しそうだった変な息を飲み込むが喉に引っかかるような声を殺すことは出来なかった。
しかしそんな自分の失態を見せたことによって、今頬を染めている場合ではない。
「じゃぁ、なぜ今だ?」
シエルは、セバスチャンの手を必死に無視しながら聞く。
今日はトランシー家から招待状がセバスチャンの手から差し出された。
元々トランシー家の存在を知ってから興味を持っていたが、招待状が届いた今、シエルの頭の中は女王の番犬としての役目よりもそちらの方が頭の中を満たしている。
なぜなら。
そのトランシー家が僕の復讐相手かもしれないからだ。
シエルは今日一日セバスチャンが集めたトランシー家の情報を再度読み直していると、不機嫌な表情で、そんなにもトランシー家が気になりますか?と何度も尋ねてきた。
その問いに、何度も当たり前だと返したが、一度も納得した表情にはならなかった。
普段ならそんなセバスチャンの態度を気にするところだが、今のシエルにそんな余裕などない。
セバスチャンのことは放っておいたのだが・・・。
夜になり眠りについていたところ、いきなりセバスチャンが部屋に訪れ、シエルに覆いかぶさったのだ。
あの3年前から人の気配に敏感なシエルは目を覚まし、腕の隙間から逃げ出して・・・今の状況だ。
「今日お前が一日中不機嫌だったのと、何か関係があるのか」
「・・・・」
その問いに答えることなく、セバスチャンはもう片方の手でシエルの腕を引っ張り、壁にもたれている背を引き剥がし、自分の方に引き寄せる。
すると必然的にセバスチャンの顔も近くなり。
「ぅん?!」
シエルの唇にセバスチャンの唇が重なり合う。
どうして、何で急にこんなっ!
シエルは混乱した頭で考えるが、答えなんて出てこない。
何度も啄ばまれる唇を必死に噛み締めるが、舌でそれを辿られた瞬間背中に痺れが走り、ほんのわずかに口の蓋が開いてしまった。
「セバっ・・・ふぅん・・・んンっ!」
その一瞬の隙を逃がさずセバスチャンはシエルの口内に侵入し、掻き回される。
舌を絡め取られ、強く吸われれば身体だけではなく、思考回路までも痺れてくる。
「んんんっ!んン~!」
それでも流されるわけにはいかない、とシエルは掴まれていない方の手で思い切りセバスチャンの頬を叩く。
パンッと乾いた音を立てると、ようやくセバスチャンの唇は離れて、開放される。
もう本当にワケが分からん!!
荒い息のまま、もう一度手を振り上げてセバスチャンの頬を叩く。
「貴様っ!いい加減にしろっ!」
「乱暴な方ですね」
「これ以上ふざけるのならば許さないぞ!」
「ふざけてなどおりません」
思い切り頬を叩いたにも関わらず、セバスチャンは再び顔を寄せてくる。
またキスされる!!!
シエルは自分の隣にあった枕を掴み、セバスチャンの顔にめいいっぱい押し付ける。
ただの人間ならば息が出来なくて苦しいだろうが、コイツは悪魔だ。
どんなに押し付けようが関係ない。
「―――――」
押し付けられた枕の向こうでセバスチャンが何かを言ったような気がしたが、その声は聞き取れない。
しかし構わずそのまま押し付けていると、腕と足を拘束していた手が離れ、セバスチャン自身も離れていく。
「!?」
枕からあげたセバスチャンの顔は、酷く悲しそうな顔をしていた。
「貴方は先ほど、このようなことをするのはなぜ今かと聞きましたよね?」
瞳は光らせたままなのに、脱力した声音で尋ねてくる。
シエルは枕を盾にするようにしたまま、声を発さずに頷く。
「今だから、ですよ」
セバスチャンは苦笑する。
「では逆にお聞きしますが、なぜ貴方はどうして今かと尋ねたのですか?」
普通ならば、私の気持ちを否定するものでしょう。
「え?」
その問いかけに思わず間の抜けた声を上げる。
よく考えればそうだな。
セバスチャンの気持ちを聞いた時、別段その気持ちがあったのは当たり前のように感じた。
僕は、コイツの気持ちを知っていた?
「セバスチャン。お前」
「もうお喋りはいいでしょう」
再び手が伸びてくる。
それは獰猛さを孕み、掴まれたら最後、奈落の底へと引きずり込まれてしまいそうだ。
人に尋ねてきといて、その態度はなんだ。
シエルはあえてその手を両手で自ら掴んだ。
突き放すようではなく、包み込むように。
セバスチャンは目を見開く。
「どうした」
シエルは静かに聞く。
普通なら在り得ない行為だ。だって今まさに悪魔に襲われようとしているのに。
あくまで執事の相手に。
けれど、どうしても聞かずにはいられない。
「セバスチャン、どうした?」
すごく、泣きそうな顔をしているから。
「今の貴方には、分かりませんよ」
シエルの手を掴み返す。
弱々しく。これ以上強く握ったら壊れてしまうのではないかと、不安を抱いているような。
「今の僕とはどういうことだ」
「言葉の通りです。今の坊ちゃんには分からないのです」
「昔の僕なら分かったというのか」
「えぇ、そうですね」
片手を引き、自分の頬にシエルの手を触れさせる。
「どうして私が今日不機嫌だったのかも…ね」
「…それは僕が何かを失ったから分からないのか」
セバスチャンはキュっと唇を噛み締めて、そうですね、と掠れた声で呟く。
こんな様子の悪魔を初めて見た。
いや、本当に初めて?
シエルはグラリと空間が歪むような感覚に襲われ、身体が傾く。
「シエルっ!!」
セバスチャンは慌てて、シエルの身体を抱きとめる。
冷たい悪魔の温かい腕。
シエルは、なぜかひどい安心感にほっと息をつく。
「大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ」
それより。
「お前、僕のこと名前で呼んだな?」
腕に抱かれながら言うと、ピクリと反応し、強く抱きしめてくる。
「申し訳、ございません」
「いや、別にいいんだ」
言いながら不思議に感じた。
初めて名前を呼ばれたのに、初めてに感じない。
この腕だって、僕はこのぬくもりを知っていた気がする。
「セバスチャン、僕は何かを忘れているのか?」
「・・・・」
黙り込むセバスチャン。
しかしすぐに、いいえ坊ちゃんと、いつもの声で返される。
そしてシエルを抱きしめていた腕も離れていく。
「坊ちゃんは何かお忘れだと?」
「だって、なんというか」
全てが懐かしい。
そう言ったら可笑しいだろうか。
「前から知っている気がする」
「っ!!」
「僕の名前を呼んだのとか、初めてだよな?」
離れてしまったぬくもりが、なぜか切なくて自分からセバスチャンに抱きつく。
今までならば考えたこともなかった。
ましてや、自分から触れようなどと…。
でも、今は死ぬほどコイツが恋しい。
「…はい、初めてですよ?」
そう答えたセバスチャンの声は、少し震えているような気がする。
コイツは素直だな。
ここで嘘をつくなと命令したはずだ、と怒鳴ればセバスチャンは僕が何を失ったのか言うだろう。
なぜコイツがこんなにも愛しく感じるのか分かるだろう。
けれど、きっとそれは僕自身で分からなければダメなんだろうな。
もしセバスチャンの口から答えを聞いて、それで全てが済むならば、セバスチャンは先ほど言っているだろう。
でもコイツは言わなかった。
どうしてかは分からない。
けれど、この悲しそうな顔と声はきっと関係している。
「セバスチャン、もう一度名前を呼べ」
「え、ですが」
「いいから。命令だ」
「・・・」
命令と言われれば逆らうことは出来ない。
セバスチャンは酷く嫌そうな顔をしながら、聞き取れるか聞き取れないかくらいの声でシエルの名前を口にする。
しかしそれでいい筈などなく。
「しっかりと呼べ」
シエルは再び命令する。
すると諦めたのか、セバスチャンは大きなため息を1つつき、シエル、と名前を呼んだ。
「もう一度」
「シエル」
「もう一回」
「・・・シエル」
「・・・そんな嫌そうに人の名前を呼ぶ奴がどこにいる。もっと普通に呼べ、普通に」
「もういいでしょう」
セバスチャンは、抱きついていたシエルの体を自分から離す。
さっきは自分から襲ってきていたというのに。
この差は何だというのだ。
まぁきっと、それは僕が悪いんだろうな。
シエルを自分から引き剥がし、ベッドから降りようとしているセバスチャンに再び声を掛ける。
「セバスチャン」
「・・・もう名前は呼びませんよ」
「そうじゃない」
「じゃぁ、そろそろお休みになられてください」
「いいから聞けっ」
セバスチャンはこちらを見ようとしないので、シエルは肩を掴み、無理やりこちらを向かせる。
変わらない悲しそうな表情に胸が痛んだが、気にせずに睨みつける。
「僕は何かを忘れている。きっと大切なことを忘れているんだろう」
「・・・」
「だが、僕は今お前の目の前にいる」
「・・・!!」
「記憶を忘れていようが、僕が僕であることは変わりない」
それだけは憶えていろ。
シエルはセバスチャンに言う。
すぐ思い出すから待っていろとは言わなかった。
思い出せる保障もないし、それに。
たとえ何かを失っていても、今自分がここにいることは変わりない。
お前の隣に、僕はいる。
だからそんな悲しそうな顔をするな。
シエルは心とは裏腹に、そのまま睨みつける。
するとセバスチャンは苦笑しながら腕を伸ばし、そっとシエルの頭を撫で
「イエス、マイロード」
と、優しく答える。
そしてそのまま何も言わず、あっという間に部屋から出て行ってしまった。
「・・・本当に何なんだ、あいつは」
独り残されたシエルは、撫でられた頭を押さえながら呟く。
急に来たかと思えば、素早くいなくなる。
本当に自分勝手な奴だ。
でも・・・。
シエルは唇にそっと触れ、一番最初に呼ばれた名前を思い出す。
「一番分からないのは僕自身だな」
アイツを追いかけたいだなんて、馬鹿げている。
独りになったのが切ないだなんて、馬鹿げている。
セバスチャンが愛しくてたまらないなんて、馬鹿げている。
「思い出したら、全てハッキリするのか・・・」
この馬鹿げた気持ちが何なのか。
ならば。
それならば。
「早く、思い出したい・・・」
シエルは、ベッドに倒れこみながら静かに苦笑した。
END

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