暗い部屋。
灯りを消したのは、僕の執事。
「お休みなさいませ。」
そう言って灯りを消し、僕の寝室のドアを閉めたのは、もう2時間は前の事。
僕は、寝付けなかった。
目を閉じられなかったのだから、眠れる訳がない。
なぜなら、目を閉じれば、瞼の裏に意図しない映像が映し出されるのだ。
映像は、僕を苦しめる。
過去の屈辱ではなく、ただ、いつもの光景なのだが、
やけに眩しく見える気がするその一挙手一投足に、
どうしてだか分からないが、苦しくなって、目を開けざるを得なくなる。
深い溜息が、枕を転げ落ちてゆく。
もう、体を横たえている事さえ苦痛になってきた。
僕は、どうかしてしまったのだ。
こんなに、ヤツの行動の一つ一つを鮮明に思い浮かべる事が出来るだなんて。
一体、どれだけ、ヤツに注意を注いでいたというのだろう。
僕を起こすと、アーリーモーニングティーを用意する。
流れるような動作で紅茶を淹れながら、
今日の予定を諳んじる声は、耳に心地よい低めの声。
俯く時に髪が顔に滑り落ちる様、口角がゆるく上がって決められた角度で止まるところ、
ソーサーを持って僕に手渡す指が、ほっそりと整った形である事、
このベッドの横に立つヤツの姿と声を、忠実に再現する僕の記憶に、
歯痒さを覚える。
ベッドから降りてみた。
使用人達も寝静まったこの時間、ヤツは、屋敷の見回りを済ませ、自室にいるだろう。
行って・・みようか、ヤツのいる所。
所在を確認するだけ。
他意は無いのだし、僕の執事の所在を確認しておくだけなのだから、
後ろめたい事など何もありはしない。
ドアの前まで歩いて、立ち止まった。
ヤツは、眠らないのだ。
気配を感じてドアを開けたら、どうしてここにいるのかと訊ねられたら、
僕は、どうしたらいいのだろうか。
そう思うと、足が竦んで動けなくなってしまった。
今夜、これで何度目の溜息だろうか。
ドアに額を付けて、立ち尽くす。
少しでも、ヤツの気配を辿ろうとするかのように、手のひらをドアに当てた。
フッと自嘲の笑いが零れる。
ドアの向こうで、ヤツが、同じようにドアに手を当てているように思うなんて。
手が、温かくなったように感じたのだ。
何と都合のいいように考えるものなのだろうか。
それは、ただの木材の温かみに過ぎないのに。
名前を付けてはならない感情に、揺れる自分が厭になる。
ベッドへ戻ろうとしたその時、僕の耳が、微かな音を拾った。
それは、ヤツの声。
「坊ちゃん。」
聞き間違い?
いや、ヤツの声を聞きたいと思う僕の願望か?
そんな事を考えるうちに、続いて、先ほどの声と同じくらい微かな音。
コン。
ドアに当てた手に伝わる振動から、それが勘違いでも何でもない事が確信される。
僕は、心を落ち着ける為に深呼吸を一つしてから、ドアを小さく叩いた。
コン。
一拍おいて、声が返って来る。
「坊ちゃん、起きていらっしゃるのですか?」
ああ、この声が聴きたかったのだった。
「寝てはいない。」
そう答えると、ドアが開いた。
静かにドアを開ければ、そこには、頼りなげな主の姿。
見上げてくるオッドアイ。
感情を読み取られまいとしているのが分かる。
ゆるく、笑みが浮かんでいく。
「どうなさいました?眠れませんか?」
部屋の中は、月明かりだけ。
私の表情も定かではないだろうに、主は、私の目を見返している。
白い手袋をした手で、主の、丸みを残す輪郭を片手に包む。
予想以上に冷えていた。
「こんなに冷えるまで、何をなさっていらしたのです?」
眉を顰めて、主に訊ねる。
「別に、なにも・・。立っていただけだ。」
立っていた、ただ、ここにこうして、体が冷えるまで。
「なぜ?」
理由を聞かれると思っていなかったらしい。
主は、目を見張って私を見ている。
しかし、すぐにその眼は、私を探るものへと変わっていった。
「お前は、どうしてここにいる?」
「いつもの、就寝前の見回りですよ。」
嘘ではない。
ただ、見回りを終えて自室に帰るつもりが、気が付いたら、ここに来ていたのだ。
「そうか?」
主は、私に嘘を禁じておきながら、私を信用しないのだ。
「質問がおありでしたら、お答え致しますが、先ずはベッドにお戻り下さい。
これ以上お体を冷やされては、お風邪を召してしまいます。」
冷えた体を抱き上げて、ベッドへ運ぶ。
この人は、どれだけの時間、立ち尽くしていたのだろう。
胸に抱き上げた華奢な体は、すっかり冷え切って、小刻みに震えているようだった。
早くベッドに入れて温まらせなければならない。
「お前、僕を呼んだろう。」
ベッドを前に、動きが止まってしまった。
あの、聞こえるかどうかと言う声を、この主は、ドア越しに聞いていたのだ。
ドアの、すぐ傍に立っていなければ聞こえる筈がなかった。
つまり、主は、ドアに密着するようにして立っていたということだ。
どうして、こんな時間に、そんな所に居たのだろうか。
主の思考や行動は、いつも私を驚かせる。
私の主は、何を思っているのか。
その顔は、私の胸に伏せられて窺えない。
呼び掛けただけ、感情が覗かれるような声音ではなかったと思うが、自信はない。
そもそも、感情と言っても、それがどんな感情なのかは、自分でもよく分かっていないが。
「さあ、そうでしたか?」
ここは、流してしまおう。
「なぜ、あんなに小さなノックをした?」
主は、私を解放してくれないらしかった。
私が知りたいくらいなのに、その質問は、答えに窮する。
たまには、正直に答えてみようか。
「なぜ、でしょうね。」
主をベッドにそっと下ろす。
やっと主の表情を見られると思ったのだが、ふいと向こうを向いてしまった。
「坊ちゃんこそ、なぜ、そんな事をお訊ねになるのですか?」
シーツを整えてやりながら、こちらから質問をしてみた。
「・・・なぜ、かな。」
声が、細く感じるのは気のせいなのか。
頸に浮く筋が、哀しく見える。
明日を待たずに会えた人が、こちらを向いてくれない。
「こちらを向いて下さい、坊ちゃん。」
哀願の滲む声になってしまったのは、自分の制御の外だった。
意外だったのは主も同じと見えて、慌てるようにこちらを振り返った。
見開かれた碧とアメジストのオッドアイ。
私の美しい宝石がそこにあって、頬がゆるんだ。
この人の顔を見られたら、次は、声を聞きたくなった。
くすっ。
私も大概に欲深いものだと、笑いが零れた。
「なんだ?」
眉を寄せて、主が不機嫌な声を出す。
確かに声は聞けた訳だが、出来れば、そんな不機嫌な声より、
聞きたい声が、ある。
「いえ、何でもありません。」
ニコリと笑顔を作った。
「何でもない訳あるか、ニヤついた顔をして。」
おや、ニコリと笑った筈だったのだが・・・。
「どうぞ、お気になさらないでください。」
気にするなと言われて、はい、そうですかと引き下がるには、
ヤツの顔は不穏な気配を持っていた。
「気にしないでいられるなら、理由を聞いたりしない。」
ヤツは、呆気にとられた顔をした。
「それもそうですね。」
ヤツの事は、どうも掴みにくい。
何を考えているのか、何を感じているのか、どうにも分からない。
悪魔と人間の違いだけでもないようなのだが。
僕の傍にいると退屈しないとヤツは言う。
けれど、ヤツを見ていると退屈しないと思うのは、僕の方もだ。
ある時は、僕に忠実な下僕、ある時は、僕の矢鱈に有能で教育熱心な執事、
またある時は、僕を陥れて楽しむ性悪な悪魔。
複雑にして怪奇、危険だが信用の出来る奴。
こんな面白いものを持っているのは、僕くらいのものだろうと思う。
この執事の所有者は、僕。
契約の完了までは、僕が、この悪魔を所有し続けるのだ。
「で?何が理由で笑っているんだ?セバスチャン。」
そう、その声が聞きたかったのだ。
主が、私の名を呼ぶ声を。
凛として、迷いの無い、真っ直ぐな声で呼ばれる仮初めの名。
今の私には唯一の名を呼ぶ主の声を、私は、とても気に入っている。
私の、どこか奥底へと、その声は浸みていくのだ。
「さあ、忘れてしまいました。」
一つづつ満たされていく私の願望。
顔を見て、名を呼ぶ声を聞いて、また、次の願望が沸き起こってしまう。
けれど、多分ここが引き際、これ以上は、求めてはならない。
何しろ、この身は悪魔だ、本気で望み始めれば、際限は無くて当たり前なのだった。
私の答えに不満げな表情を見せる主に挨拶をして、退出しようとした。
が、主の手が、ついと伸びて、私のタイを握って引き寄せた。
空いている方の手が、私の顔へと近づいて来る。
一瞬の事の筈なのに、それは、時間の流れを無視して、ゆっくりと感じた。
主の小さく細い指先が、私の頬に触れるか触れないかの距離で、肌を撫ぜる。
そのまま、指、手のひらと、順に頬に添わせられていく。
そんな風に、私の望みを叶えないで。
もっと先を望んでしまったら、どうすればいいのか。
「お前も、すっかり冷えている。」
私の内には、低温の火が広がろうとしていた。
頬に添えられた手を柔らかく取り、シーツの中へとしまう。
主の手を離す時、少しだけ、惜しいと思ってしまった。
もう、戻れないかもしれない。
私の大切な、主。
どうして、そんな事をしようと思ったのか分からない。
考えるより先に、体が動いてしまっていた。
その、白い頬に触れてみたいと思った時には、既に手を伸ばしていたのだ。
引き寄せられるように、と言った方がいいかもしれない。
タイを引っ張ってヤツを近寄せると、頬に手のひらを当てていた。
すっかり冷えているヤツの頬。
なぜか、その冷たさが、僕の手に移ると熱さに変換されていく。
「さあ、もうお休みになられないと明日が辛いですよ。」
そう言って、僕の手を取り、シーツの中に入れたヤツは、
ほんの短い間、僕の手を離すのに時間を掛けた。
その意味を、考えてもいいだろうか。
僕の悪魔で執事は、何を思ったのか。
契約という離れられない関係とは別に、離れる事を許せない関係が、
この時、始まろうとしていた。
変わるきっかけを、見つけた瞬間だったのかもしれない。
End
****
あとがき
「Chat Noir」のたままはなま様からLittle Box*015の続きの小説を頂きました!
もうもう、トキメキが止まりません!www
あんな稚拙文章がこんな素敵なストーリーになるなんてッ!流石たままはなま様です!
サブタイトルまで入っていて、本当に感動しました!
たままはなま様は絵も書けて本当に凄いですよね!尊敬します><
たままはなま様、稚拙文章の続きにこんな素敵な小説を
本当にありがとうございました!!!

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