「おやすみなさいませ、坊ちゃん」
燭台を持って、一礼して、扉を閉めて。
与えられた部屋に戻ってきてから一体どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。
悪魔である自分に睡眠は必要なく、昼間とは違って暇となった時間を潰すかのように書類を片付けていたのだが、それもすぐに終わってしまう。
セバスチャンは腰を下ろしていた椅子から立ち上がり、白いシーツが引かれているベッドの上に移動する。
契約者である主人の“人間らしくしていろ”との命令により何度もコレに横になったことはあるが、眠ったことは一度もない。
ただ瞳を閉じて、長い長い夜が明けるのを待つばかり。
「いつまで経ってもこの時間帯は慣れませんね」
静かな夜は嫌いじゃない。むしろ好きな方だ。
闇が世界を覆う様は酷く心地良い。
けれど、昼間とは違う静かな屋敷は慣れないものだった。
迷惑極まりない使用人の音が聞こえない。
お子様な主人のスイーツを求める声が聞こえない。
横暴な主人の呼び声が聞こえない。
彼の声が聞こえない。
「・・・坊ちゃん」
口から零れ落ちた名前は、返事など返ってくることもなく闇に吸い込まれていった。
彼の口から自分の名前が零れ落ちたのならば、闇に吸い込まれることなどないのに。
どこにいたって、どんなときだって、呼べば私は答える。それが悪魔だ。
けれどなぜかそれが不公平に感じてしまって。
「・・・・・・シエル」
少しでもこの声が届けばいい。
彼の夢の中に私が出ればいい。
そして、私のことを想って欲しい。
今私がシエルのことを想っているように。
そんな思いを込めて先ほどよりも大きな声で名前を呼ぶけれど、やはりそれは消えて行ってしまう。
「やはり駄目ですね」
結局、今こんなところで名前を呼んだって駄目なのだ。
自分の声は相手の目の前にいないと届かない。
伝わらない。伝えられない。
そして。
――――セバスチャン
その返事が聞こえない。
あぁ。
早く朝になればいい。
セバスチャンは瞳を閉じて、小さく息を吐き。
もし次に瞳を開けて朝になるのなら。
眠るのも、悪くない。
そう自嘲気味に笑った。
end

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