静寂が世界を包み込む真夜中。
今日はどうやら雲が出ていて、星も月も顔を出していない。
灯り1つない、本当の暗闇。
「・・・」
そんな中を平然と歩く一人の執事。
普通の人間であるならば、視界には闇しか映らず、歩くことも困難だろう。
だがこの執事の正体は悪魔である。こんな暗闇など何てことはなかった。
悪魔からしてみたら、そんな非力な人間の方が不思議でしょうがない。
どうしてこんなにも人間は弱いのか。
しかしそれは悪魔にとってはむしろ好都合。なぜなら人間は悪魔の餌に過ぎないからだ。
もちろん、この執事を被っている悪魔もその思考は持っている。
さらにはほんの少し前まで、その非力で無様な様を嘲笑うのが趣味であったのだから。
けれど今は。
「…坊ちゃん」
何よりも愛する主人の元へと足を運ばせていた。
― 私がここにいるから ―
数時間前に閉めた扉を再び音を立てずに開ければ、そこにはシエルの姿があった。
ベッドで横になり、シーツを掛けて眠りについた筈だったのだが、今は窓の方を向くように身体を起こしている。
セバスチャンの方からは、その背中しか見えない。
けれど、今そのシエルがどんな表情をしているのかが手に取るように分かる。
それは執事だからではなく、ましてや悪魔だからではない。
悪魔である筈の自分が、愛した人間だから分かるのだ。
「坊ちゃん」
「なぜここに来た」
小さな声で名前を呼べば、呻くような声で返される。
機嫌が悪いときに出す声音より、どこか痛々しい声音だ。
セバスチャンに顔を見せたくないのか、背を向けたまま俯き、小さくなってしまう。
けれどその肩は震えていない。しかし強く拳を握っている。
「愛する人が苦しんでいるというのに、放っておけるわけがないでしょう」
「安心しろ悪魔。魂の味が濁ることはきっとな」
「そういうことではありません」
どこか馬鹿にするように言う主人の言葉を途中で切る。
本来ならば執事としては有り得ない行為だが、今の場面では良い判断であっただろう。
「どうしてそこまで強がるのですが」
なぜなら、ただの虚勢だから。
痛みを我慢するための、上辺だけだから。
そんなもの全て捨ててしまえばいい。
肩を震わすことも許さないシエルを抱きしめようと一歩前に出れば、来るなという拒絶が返って来る。
「命令だ、絶対にこっちには来るな」
「なぜです」
「主人の命令に疑問は持つな」
「それが本心であるならば、忠実に従います。しかしそうではないでしょう?」
一歩、また一歩と足を進め、シエルの座るベッドの前までやって来る。
振り返らずともセバスチャンが近くに来た気配を感じたのか、初めてそこで一瞬だけ肩を震わせた。
「出ていけ」
「嫌です」
「いいから出ていけッ」
「・・・」
頑なに自分を拒否する声。
ため息をつきながらそのベッドに腰を掛け、その背中に自分の背中を合わせる。
一回り以上小さいにも関わらず、孤高を背負おうとしているその背中に。
「これで泣き顔は見れませんよ。だからいいでしょう?」
「泣いてなんかいない」
「…そうですか」
泣いていることを認めないシエルに苦笑すれば、ただ…、と囁くように小さく言う。
「ただ…目から水がなぜか零れて来るだけだ」
自分でもなぜだか分からない。
そう言った声に、水気は全く含まれていない。
本当に本人もどうして涙が出てきているのか分からないのだろう。
ただ目から水が零れていると、客観的にしかその涙を捉えることが出来ない。
胸が悲鳴をあげるように痛んで泣いている筈なのに。
泣き方すら忘れてしまった、小さな子供。
「その水は涙と言うんです」
「…そんなはずはないだろう」
「上辺では否定して結構。けれど、きちんとそれを心では認めてください」
遠まわしに、貴方は泣いているんですと言えばシエルはそのまま黙り込んでしまう。
やはり“泣く”ということを認めはしないだろうか。
弱さを極端に嫌うシエルのことだ。涙を流すことをきっと許していない筈。
けれど、ただ合わせていた背中にほんのわずかにシエルの重みを感じた。
それはシエルがセバスチャンの背中に寄りかかった証拠。
自分が泣いていることを認め、そして少しでもそれを許してあげられたのだろうか。
セバスチャンは振り返りたい衝動に駆られたが、それを必死に押し止めた。
振り返っては、きっと今保たれている何かが一瞬にして崩れてしまう。
「…なぜだろうな」
「・・・」
「自分でも分からない。どうしてこんな状態になっているのか…」
「・・・」
「悲しくも苦しくもないのに、ただ零れてしまうんだ」
止まってくれない。
シエルはかすれたような声音で暗闇に秘密を見せるかのように話す。
それはどこか悪魔にとって心地よい空間ができ、静寂の闇の中で生まれた神聖なる何かにも感じてしまう。
その涙がどこまでも澄んだものだからだろうか。
けれど。
「私がその涙を拭いますよ」
愛する人には、やはり笑顔でいて欲しい。
笑顔でいることが難しくても、涙が零れないように…悲しむ時間が少しでも少ないように。
でもきっとこの子供には、泣く時間が必要なのだとも思う。
吐き出せない言葉の代わりに。
だからそれを私が受け止めよう。
「何度も、何度だって、私が貴方の涙を受け止めます」
忘れないでください。
「私がここにおりますよ」
いつだって傍にいる。
ずっとずっと傍にいる。
たとえ孤独を耐え、それでも毅然と闇の中に立つ貴方の姿が誰よりも、何よりも美しいのだとしても。
涙を流している貴方だって、愛しい貴方の一部なのだから。
少しでもいいから頼って欲しい。甘えて欲しい。
その小さな背中に背負うものを、分けて欲しい。
そんな想いを込めながら、シエルと同じだけ背中に寄りかかる。
この重さが傍にいる証明に繋がればいい。
そうどこか切なげに微笑めば。
「セバスチャン」
やっとどこか濡れたような声で呼ばれる。
「はい」
「どうして、僕の傍にいるんだ」
それはただの疑問か。
それとも失うことを知った思いからの恐怖か。
それとも、契約…復讐を思い出すためか。
ここで一番正しい答えは、契約があるから、なのかもしれない。
現に悪魔と主人の繋がりは契約であるのだから。
そしてある意味それが一番強い繋がりであり、不安になることも、または不安定な存在でもないからだ。
しかし、ここではあえて別の答えを言わせて欲しい。
この答えは何よりも不安を生み、何よりも不安定な存在だけれど、
「貴方を愛しているからですよ」
何よりも温かいものだから。
「…そんな甘い言葉…」
「それでも、言わせてください」
「…馬鹿」
その甘い言葉は残酷かもしれないけれど、これが本音。
それをシエルが受け止めてくれたことが、素直に嬉しかった。
クスリと笑う声に、内心ホッと息を吐く。
すると、再び小さく名前を呼ばれた。
「僕にそこまで言ったんだ」
だから。
一度そこで言葉を切り、息を吐き、吸い込む。
まるで緊張している時の仕草。
「だから、お前は、お前は僕を」
そして紡がれた言葉は、星も月も隠れた暗闇の時の今だけに許された本音。
「置いていくな。魂も。身体も」
ちゃんと、傍にいろ。
もしも何かがあった時には、自分も連れて行け。
その意味を込めて放たれた本音は、セバスチャンの心に深く染み込んでいく。
きっとそこには“僕も愛している”という返事も含まれているのだろう。
この子供が歩んできた地獄を考えたら、その言葉にはどれだけの想いが込められているのだろうか。
「もちろん。貴方が嫌だと拒否なさっても私はずっと傍におりますよ」
「はっ。お前らしいな」
「今だって、命令を無視してここにおりますし」
「あぁ、そうだった」
二人で背中合わせに笑い合い、そして今度は甘い空気が流れ始める。
「…ねぇ坊ちゃん」
「…なんだ」
「抱きしめても、宜しいですか?」
「・・・」
一瞬の沈黙。
けれど返事はすぐに返される。
「いや、もう少しだけこのまま…」
この。
「涙が止まるまで」
初めて自分の瞳から零れるものを“涙”だと言ったシエルに、セバスチャンは優しい笑みを浮かべながら、分かりましたと頷いた。
涙が止まったら、その倍笑顔で抱きしめ合いましょう。
END
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あとがき
「くさもち」ようとん様へ、いつも素敵な絵を頂いている御礼第二弾です!ww
今回はお題書きということで『背中合わせ』というお題をもとに書かせていただきました^^
もうセバスが坊ちゃん大好き甘甘病な感じになりました(笑)
ようとん様、本当にいつも仲良くしてくださり、そして素敵な絵をありがとうございます!
これからもこんな変態ですが、仲良くしてくださいね!!!

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