暗闇の中にいる自分が大層不安定な気がした。
全てが曖昧で、まるで今にも消えそうな・・・そんな感じだ。
(悪魔の自分が、何を言っているんですかね)
暗闇の中でそうクスリと笑うが、心はどこか冷たいまま。いや、冷たくなるという表現もどこか可笑しいだろう。
自分は悪魔なのだ。心が揺れ動くことなんて無い。だから“温かい”も“冷たい”も無い筈なのだ。
それなのに心が冷たいだなんて、一体自分はどうしてしまったのだろう。
そう考えるも。
本当はどうして自分がこんな状態になっているのか、原因は嫌でも分かっている。
解かってしまっているのだ。
(可笑しな話です)
口元に弧を浮かべたまま息を吐く。
原因が解かっているにも関わらず、この不安定さをどうやって安定させられるのか解からない。
見てみぬ振りをすればいずれかは安定するのか。それとも別の何かで補えるのか。
いや、きっと後者は無理だろう。別の何かで補えるほど“彼”は安い存在ではなかったのだから。
ズキリ。
ふと急に胸が痛んだような気がして、胸元をギュッと掴む。
(あぁ・・・またですか)
“彼”のことを考えると、自分の胸は痛み悲鳴を上げるのだ。今自分の目の前にいないことを、なぜだと己を罵倒するかのように。
なぜ目の前にいないのかと罵倒したところで、全て今更の話しだ。
もう“彼”は、シエル・ファントムハイヴの魂は喰らってしまったのだから。
「・・・・滑稽ですね」
声に出して、呟く。
その声に嫌味な返事など返ってくるわけもなく、ただ暗闇の中に吸い込まれていくだけ。
そんなこと今までは当たり前だったのに。そんなことを気にすることなど、ましてや意識したことなどもなかったのに。
「・・・・・・・・・坊ちゃん」
彼の魂を喰らってから、自分が・・・自分の存在自体が大層不安定になった。
初めは、己がこんな状態になってしまったのは彼の魂を喰らったからだという真実を受け入れたくなくて、足掻くように別の答えを導こうとしていた。けれど彼を思うたびに痛みが走る胸が、認めざるおえない証拠だったのだ。
「・・・・坊ちゃん」
再び相手を求める声を上げ、腕を伸ばす。
その腕だって暗闇に飲まれ、虚空しか掴まないことは知っている。
それでも伸ばさずにはいられない。求めずにはいられない。
すると。
ヒラリと。
蒼い蝶がどこからともなく姿を現した。
その蒼い蝶は伸ばした手の指先に止まり、凛とした姿を悪魔に見せつけてくる。
蜘蛛の巣に絡め取られてしまえば逃げられないし、羽をもがれてしまえば飛ぶことも出来ない貧弱な生き物だというのに、随分と生意気な態度だ。
その姿は酷く彼と重なった。
「あ・・・ぁ・・・」
小さく声を洩らし、首を横に振る。
その振動が伝わったのか、指先に止まっていた蒼い蝶は再び羽を広げ飛んで行ってしまう。
ヒラヒラと、自分の手の届かないところへ。
焦ったようにその蝶へ手を伸ばし捕まえようとするが、蝶はスルリとその手を避けて遠くへと行ってしまう。
もしもここで自分が本気を出したら楽に捕まえられるだろうけれど、優しく捕まえられる自信がどこにもない。もしかしたら己の手で潰してしまうかもしれないのだ。
そう考えたら遠くへと飛んで行ってしまう蝶を追いかけることも出来ず、ただただその後ろ姿を見守ることしか出来なかった。
あの時みたいに。
魂を差し出した彼を。
喰らうことしか。
出来なかったみたいに。
「坊ちゃんッ!!」
悪魔は蒼い蝶に向かって叫ぶ。
どんどん遠くへと行ってしまう蒼い蝶に向かって。
「ッ・・・坊ちゃん、坊ちゃん・・・坊ちゃんッ・・・!!」
もう二度と会えない彼を呼ぶ。
あの時、どうすれば良かったのか。
魂が喰らえると喜んだ悪魔の自分と。
どこかに亀裂が入り始めた執事の自分。
けれど高貴なる魂を喰らえることに喜びを感じていた悪魔の自分にも、その亀裂は感じていて。
この魂を喰らったら、きっと後悔するということは解かっていた。
それでも喰らうしかなかった。
それでも、喰らうしかなかったんだ。
だって彼は人間だったから。
だって彼は契約者だったから。
だって自分は悪魔だったから。
「坊ちゃんッ!坊ちゃんッ・・・!!」
道はそれしかなかった。
この結果しか残ってなかった。
あの瞬間に“何かが起きてくれない限り”どうしようもなかった。
あぁ、全て今更だ。
どう足掻いたって、もうどうすることも出来ない。
悪魔が滅多に流さない涙を流したって帰ってこない。
輪廻転生だって望めない。
もう二度と会う事が出来ない。
後悔したって遅いのだ。
自分だって解かっていた筈なのに。
―――― 失われたものは戻らない。
“Never More.”
・・・せ・・・。
・・・め・・・せ・・・おい・・・。
「目を覚ませッ!!」
「・・・ッ!!」
耳に直接大きな声を吹き込まれ、セバスチャンはビクリと身体を奮わせながら閉じていた瞳を開ける。
映った視界は随分とぼやけているが、目線の先に怒った顔をしながら瞳を赤く染め上げているシエル・ファントムハイヴがそこに見えた。
「ぼ、っちゃん?」
「全く。少し眠ってみろと命令したはいいが、すぐに目を覚まさないとは。悪魔でも眠ると聴覚が遠くな」
「坊ちゃんッ!」
セバスチャンはシエルの言葉を全て聞かず、相手を押し倒すように抱きつく。
腕の中から驚いたような声が聞こえたが、それを気にしている余裕など今はない。
もう二度と会えないと思っていた存在が今目の前にいる。それが酷く嬉しくて、酷く安心した。
もっともっと存在を感じたくて、抱きしめたシエルの頭に顔を埋め息を吸い込み、シエルの匂いを胸一杯に満たしていく。
すると先ほどに感じていた胸の痛みなど、初めからなかったかのように跡形も無くなってしまう。
「・・・何か夢でも見たのか」
どうやら様子がおかしいと考えたシエルは窺うように声を掛けてくる。
向こうにしたら全ていきなりの展開だというのに、最初から正解のカードを引いてくるとは。
やはり侮れない主人だ。
セバスチャンはシエルを抱きしめる腕を離さないまま、コクンと頷いた。
「貴方が、悪魔になるきっかけが無かった場合の、夢を見ました」
「僕が悪魔になるきっかけが無かった夢?」
シエルはワケが分からないとでも言いたそうな声音で眉を顰める。
こんな遠回しな言い方をせずに、貴方の魂を喰らった後の夢を見ました、とストレートに伝えてしまえばいいのだが、なぜかそう伝えるのは憚れた。
しばらくシエルは相手からの答えを待つようにセバスチャン見つめていたが、相手は何も言わないと理解すると、若干呆れたようなため息を吐きながら考え始める。
暫くの沈黙が身を包んだが、すぐにシエルは再び答えのカードを引き当てた。
「クロードが僕の魂を奪わなかった場合の夢ってことか?」
「・・・・ッ」
言われた瞬間にその夢の映像が一気に現実味を帯びたような気がして、セバスチャンはシエルを抱きしめる力を強くする。
するとシエルはセバスチャンを慰めるようにポンポンと背中を優しく叩いた。
「お前、寝ている間にそんな夢を見たのか。クロードが僕の魂を奪わなかったということは、人間であった僕の魂を喰らえたということだろう?悪魔のお前としては喜ばしい夢じゃないのか?」
「・・・・・・そんなわけ、ないでしょう」
セバスチャンは唸るように否定する。
だが、シエルの言葉は正しいだろう。悪魔の自分としては正しい道のりだったわけなのだから。それに、あれはきっと本来辿るべき道だった。
あの瞬間に“何かが起きてくれた”から、今目の前にシエルがいるのだ。
あのままクロードに魂を取られることなく喰らっていたと考えるだけで・・・いや、考えたくも無い。
もうあんなのはこりごりだ。
「少しくらい、クロードさんには感謝してもいいですよ」
「・・・・・・お前からそんな言葉が出るなんて・・・変な命令も出してみるものだな」
「ちょっと、もうやめてくださいよ。正直、もう一生眠りたくないです。一種のトラウマですよ、トラウマ」
「そんな餓鬼みたいなことを言うな、悪魔のくせに」
此方としては本気で言っているのだが、シエルはクスクスと楽しそうに笑っている。
若干それにムッとしたが、今は嫌味を言う気分ではない。
「坊ちゃん」
名前を呼んで、髪の上に口付けを落とす。
それの感触に顔を上げたのを好都合とばかりに次は額に口付け、そして次は鼻先。
そして目尻、頬・・・順番にあちこちに口付けを落としていく。
最後は唇に・・・と、自分の唇を相手の唇に寄せれば、触れ合う前にシエルが苦笑した。
「馬鹿だな、お前は」
「・・・分かっていますよ」
「ったく。安心しろ」
唇と唇の距離をシエルが埋め、シエルからセバスチャンに口付ける。
相手からの口付けに驚き瞠目していれば、すぐにチュッと音を立てて離れ、そして。
「僕はここにいる」
そうだろう、セバスチャン。
優しく微笑みながら、シエルはセバスチャンの額に口付け、そして次は鼻先。
セバスチャンがシエルに口付けたのと同じように口付けを落としていき、また唇へと戻ってくる。
「えぇ。貴方は私の傍に」
永遠に。
そして今度は、セバスチャンの方から
唇と唇の距離をゼロに埋めた。
end

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