「あれから屋敷に戻ると、まるで時間が戻ったようでしたね」
白薔薇の蕾に触れさせていた手を下ろし、今度は己の手でそれに触れる。
シエルよりも汚れている手であるのに、その白薔薇が汚れることはない。否、悪魔の手が汚れているという表現は少しおかしいかもしれない。
悪魔は元々汚れているのが当たりまえで、それが普通のことだから。
「復讐を終えれば全てが終わると思っていた貴方は、身の回りのことを全て整えていた」
復讐に身を焦がしていた彼だが、その焦がしている身だからこそ、残された者の辛さを知っているのだろう。
運営し続けていた会社には引き継ぎを。
女王の番犬としての名は己の死を示した手紙を出して返上。
婚約者には最期の別れを。
使用人にはロンドンの方の屋敷を与え、今後の生活の保障を。
そして――――
燃えて無くなった筈の屋敷の傍に埋められた、“両親”には花と永遠の静寂を。
だから屋敷に戻ると、まるで出会った頃のように二人きりの生活が待っていた。
だが、見た目は似ていたとしても月日が経ったのだから、生活の中身は全然違う。
もう己は執事として完璧に機能していたし、彼もあの頃のような子供ではない。
そしてあの頃のように復讐に身を燃やす姿もない。
けれど変わらないものが一つだけあった。
「ここまで貴方が“終わり”を望んでいたなんて、知りませんでしたよ」
触れていた蕾を若干乱暴にむしり取り、セバスチャンはシエルの目の前にそれを持っていく。
きっと以前ならば「咲く前に摘んでどうするんだ」と憤怒していただろう。
だが今の彼はそれを瞳に映すこともせず、ここではない別の世界を見たまま。
ここではない、この世界ではない場所を。
「…そんなに、この世界は嫌ですか」
彼が復讐相手だけではなく、この世界をも憎んでいることは知っていた――――知っていただけだ。
理解はしていなかった。
こんなにも、こうなってしまうほど彼がこの世界に留まることを嫌がっていたなんて。
「坊ちゃん、」
セバスチャンは摘んだ蕾を彼の胸元へ差し込み、少しでも彼の視界に入るようにしゃがみ込む。
瞳を見つめたところで、相手から同じ視線が返ってくることはない。
何度も、何度もそれは経験した。
「ねぇ坊ちゃん」
返事はない。
「坊ちゃんッ」
分かっている、返事がないことくらい。
だけど、もう。
「坊ちゃんッ!!」
こんなの――――
『こんなの嫌なんだ』
『どうされました?』
紅茶を注ぎながら、シエルが呟いた言葉にセバスチャンは反応する。
小さく呟かれたソレに返事なんて欲していなかっただろう。だがそんなことはどうでもいい。
もう彼は己のものだ。
たとえ執事のように仕えていたとしても、もう彼を自由気ままに扱っていい権利がある。
『何が嫌なんです?』
読んでいた本を膝の上に置き、窓の外を眺めているシエルに注ぎ終えた紅茶を渡す。
しかしシエルはそれを受け取らずに、外を眺めたまま。
『頭が、おかしくなる』
『本が難しいので?』
『…分かっているくせに』
はっ、と自嘲するような笑みを浮かべ、シエルは弛緩するように額をコツンと窓に軽くぶつけた。
彼の言う通り、セバスチャンは最近のシエルがおかしいことに気が付いていた。
頭がおかしくなる、その言葉の通りに。
無意識なのかと思っていたが、どうやら彼もそのことに気が付いているらしい。
『・・・・』
セバスチャンは差し出した紅茶を己の方に引き寄せながら視線を下にずらす。するとそこには荒れて真っ赤になってしまっている手があった。
その手は乾燥したようにガサガサで、割れたのだろう線のような傷もところどころにある。
薬は塗っている、それに手袋だって。けれどそれでは間に合わない。
『…また、』
セバスチャンは口を開く。
『また、手を洗いに参りますか』
『・・・・』
『それとも湯に浸かりますか』
「汚い」と呟いたのは、この屋敷に帰ってきてから数日後。
真夜中独りベッドに潜る彼から「赤い」と言う声が聞こえ始めたのは、ここ数日。
誰も、何も話していないにも関わらず「煩い」とハッキリ言葉にしたのは今朝の朝食。
おかしくなる、なんていう表現はなんてオブラートに包まれたものなのだろうか。
そんなものじゃない、頭がおかしくなるどころの話じゃない。
彼は少しずつ、壊れてきている。
けれどセバスチャンはそれをどうにかしようという気は生まれてこなかった。
彼はもともと“不安定”だ。
そう、これこそあの頃から変わらないもの。
彼はふとした拍子で崩れてしまいそうなほど不安定で、脆弱で、それなのにプライドと意地で踏みとどまる高貴な魂を持つ。
だから大したことではないと思っていた。
だってほら、
『別に、いい。その時は僕から言う』
『また自分の力だけでやろうなんて思わないでくださいね。私の仕事が増えますので』
『煩いっ、あれは貴様が高いところにタオルを置いておくからだろうがっ!』
悪魔である己に相変わらず咬みついてくるではないか。
『あぁ、すみません。坊ちゃんの身長を考慮しておりませんでしたので』
『~~~~!自慢か貴様!』
これでいい。
これが、いい。
こうやって、一緒にいたいと望んだから傍においているのだから。
望んでしまったから、餌である魂を喰らわずに共に過ごしているのだ。
だから、
本当に壊れてしまうだなんて。
考えもしなかった。
ずっと
ずっと
彼は、
悲鳴を
上げていたというのに。
『いつ、喰らうんだ』
それは毎晩聞かれることで、眠る前の挨拶のようなものになってしまっていた。
『さぁ。私の気分次第です』
『どうしたら貴様がそういう気分になる』
『…そんなにも悪魔に魂を喰われたいのですか』
『どうだろうな』
穏やかに微笑む彼。
以前なら絶対に見ることの出来ない笑みだろう。
それを今の彼はすぐに浮かべる。
『ではなぜそんなにも喰らうことをお聞きするのですか』
『貴様と似たようなものだろう?』
毎朝、貴様は――――
『今日も“1日”が始まると、言う』
淡い淡い、微笑み。
ふわりと香るのは、狂乱の花。
壊れた彼が浮かべる、死の願望。
『それと同じだ』
『ぼっちゃ、ん』
『あぁ、ああアぁあ゛アぁァあ゛』
微笑んでいる口から零れるのは、もう言葉だけではない。
『坊ちゃんっ』
『ぁアああァああ゛ァぁあ゛ァ――――――っ!!』
最後は人間とは思えないような金切り声を上げて笑んだまま己の身体を傷つけ始める。
そこには彼のものとは思えないほどの力が込められており、簡単にその美しかった素肌を傷つけていくのだ。
セバスチャンは再度名前を呼び、悪魔の力でそれを押さえつける。
その間もシエルはずっとずっと、
微笑んだまま。
そして落ち着いた頃には、
『どうした、セバスチャン』
同じ笑みを浮かべながら、そう言うのだ。
それはもう、
手遅れだった。
それからシエルは口から音を発することが多くなり、
セバスチャンの呼び声にも答えないで、
瞳から光(意識)を失った。
「ねぇ坊ちゃん、私の声が聞こえているんでしょう?」
しゃがんだままシエルの肩を掴み、瞳を覗き込む。
契約が終わったにも関わらず、今だに刻まれたままの契約印。
悪魔である己が喰らわないから、まだそれは獲物の印としての役割を果たしている。
けれど、その奥にあったはずの光はもうどこにもない。
「聞こえているんでしょうっ?!」
強く、揺さぶる。
手を引かないと歩くことをしない彼だ。
その揺れに耐えきれるわけがなく、なんの抵抗もないまま白薔薇の園の方へ倒れていく。
――――ドサッ、
痛みで呻く声すら響かない。
ただ身体が地面についた音と、揺れた葉の音だけ。
「ッ・・・」
そんなシエルの上に覆いかぶさる様にセバスチャンは両手を彼の顔脇に置き、膝の間に挟む。
『き、さま!早く退けろッ』
そんな声、どこにも聞こえない。
「坊ちゃん」
ねぇ坊ちゃん。
セバスチャンは頬を優しく撫で、名前を呼ぶ。
きっと今己の顔はみっともないくらい歪んでいるだろう。
「私の名前を、呼んで」
あの頃みたいに。
怒った声でいいから。
感情がなくてもいいから。
いや、名前が呼べなくてもいいから。
「私を、見て」
見て。
ほら、私はここにいる。
貴方の命を守ってきた悪魔はここにいる。
貴方を傷つけるものなんて、もうどこにもない。
ねぇ見て。
こっちを見て。
気が付いて。
気が付いて。
目を覚まして。
ねぇ、ねぇ、ねぇ。
「もうこんなの、嫌なんですよッ!」
彼の頬に、ポトリと滴が落ちた。
まるで彼が泣いているかのよう。
でも違う。
泣いているのは、自分だ。
「坊ちゃん…坊ちゃんッ!!」
彼は今ここ生きている。
手を引けば歩くし、促せば食事だってする。
魂を喰らって、その存在さえも失ってしまうよりは遥かにマシだろう。
己の望みは、彼と一緒にいることなのだから。
でも、
でもこんなの、
「望んだ形なんかじゃない!!」
ただ、あの生活を。
契約している間と同じ生活を、契約後にもしていたくて。
ずっとずっと、ああやって共にいたくて、傍にいたくて、
ただそれだけでッ!!!
けれど、シエルにとっては。
『やっと終わったな』
“ただそれだけ”で済まされるものではなかった――――
分かっていた筈なのに。
彼がどれだけ世界を憎んでいたか。
どれだけ復讐心のおかげで、立っていられたのか。
全部全部、分かっていた筈なのに。
全然、分かっていなかった。
「どうしたら、良かったですか?」
分かっていたら、気付いていたら、こんなことにはならなかった?
傍にいたいのだと、素直に言えばよかった?
一緒に歩みたいのだと、素直に伝えればよかった?
貴方は全然汚くないと、撫でてあげればよかった?
真っ白のままであると、夜中そばにいてあげればよかった?
煩いのならば私が耳を塞ぐと、優しく包んであげればよかった?
自分がしてあげたいことを、してあげればよかった?
「貴方が好きなのだと、貴方に伝えればよかった?」
ポタポタと、想いが込められた滴が落ちていく。
あぁ彼が濡れてしまうと思っていても、止めることなど出来ない。
彼がもう手遅れだった時のように、止めることなど。
想いを、止めることなど。
「好きです、坊ちゃん」
白い薔薇の蕾。
風に吹かれてその身を揺らす。
その白さは、あの時の雪と同じ。
この言葉こそ、あの時に言えばよかった。
もう全て手遅れになった今、
偽物の雪に囲まれながら、やっと伝えた。
(でも本当は、)
(もう知っていたんじゃないですか?)
「シエル、」
ゆっくりと手袋を外して、同じ契約印が刻まれたその手を彼の首へ。
そっと、そっと。
壊れ物を扱うかのように、慎重に。
そしてそれを壊すために、
ゆっくり、ゆっくり力を込めていく。
温かい。
鼓動を感じる。
それすらも、
みしり、
みしり、
壊していく。
自分の手は冷たい。
震えている。
けれど、
「・・・・っ!!」
ふわりと、
シエルは、
笑った。
久しぶりに見たそれは、
なんて――――
「卑怯、ですね」
ほら、やっぱり。
聞こえてた。
『もう、いいのですか』
『あぁ』
両親の墓に花束を置き、立ち上がる。
少しだけ何かを伝えるような表情をしたが、それはほんの一瞬。
もっと、彼らの子供として話したいことがあるだろうに。
けれどシエルはどこか晴れやかな表情をしながら首を横に振った。
『もう言うことなどない』
『ご報告で十分だ、と?』
『あぁ』
凍えるような風が頬を撫でる。
室内で育てた花にとっては地獄のような場所だろう。
それでもその身は美しいままで、流石は彼の一番お気に入りの花であると、妙に感心してしまった。
『それに、こんな墓地に話し掛けたところで聞こえやしないだろう』
『それを言っては墓地の意味がなくなってしまうでしょう』
『いいや?墓地はようするに生き残った者が心の傷を少しでも癒す為のものだ』
死んでしまったものへ出来る、最後の行い。
たしかに死者の為の墓地かもしれないが、結局は生き残った者の自己満足に過ぎないのだと、彼は言う。
それは捻くれた彼らしい言葉だ。
『まぁそうかもしれませんね』
ですが。
クスクスと笑いながらセバスチャンはシエルを見つめる。
『たとえ墓地に埋められた死者に声は届かずとも、私が聞いておりますよ』
『…貴様が聞いてどうする、貴様が』
『誰にも届かずに消え去るよりはいいでしょう?』
『貴様に聞かれるよりはマシだ』
先ほどまでの晴れやかな表情はどこにいったと聞きたくなるくらいシエルは表情を歪めてため息をつき、両親に背を向ける。
しかしその声はどことなく、澄んでいた。
『…なら、僕も貴様の言葉を聞いていてやる』
『は、』
『どうせ貴様の腹の中にいるんだろう?貴様が聞いていてほしくないことも全部聞いていてやる』
これで対等だろう?
シエルはいつもの厭味ったらしい笑みを口元に浮かべる。
『人間如きが何を』
『人間舐めるなよ、悪魔が』
『…いいでしょう』
それと同じ笑みを、セバスチャンも浮かべた。
『全部、ぜんぶ聞いていてくださいね』
『あぁ。一字一句聞いておいてやる』
『期待はしませんが』
『…いい加減にしないと先に貴様から脳天ぶち抜くぞ』
『出来るものなら』
嫌な笑みを二人は浮かべながら、その場を後にする。
振り返ることはしない。
互いを瞳に映して、憎らしいと語っていた。
風が吹く。
墓に置かれた花束は、
その白い薔薇は、数枚の花弁を身から離し、
冬にしては珍しい晴天の空へ旅立っていった――――
End
****
あとがき
まずは…こんな暗い話に最後までお付き合いしてくださって、
本当にありがとうございますm(_ _)m
まさかこんなに長くなってしまうとは…予想外でした。
この文章のセバスは、簡単に言ってしまえば素直ではなかったということと、
悪魔であるが故に、シエルの心境が分からなかった(守れなかった)ということです。
この二人が最後どうなったのか。
シエルが笑ったのは、やっと死ねると思ったからか、
セバスからの告白が聞こえたからか、
このまま死んでしまったのか、それとも正気に戻って幸せに暮らしたのか。
それは皆様のご想像にお任せします^^
しかしいつもの通り、書いていて楽しかったなり!←
最後までお付き合いくださって、ありがとうございました!

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