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ひたすら暗いです!
『なぁセバスチャン』
名前を呼んだ彼の表情は、酷く柔らかかった。 鳥の鳴き声が、屋敷の敷地を震わせる。 朝陽はカーテンの向こうから顔を覗かせ、眠っている人間を起こそうと躍起になっていた。 だがその眠っている人間との間には立派な布地のカーテンが立っており、その光が差し込まぬよう、人間の眠りの妨げにならぬように守っている。 薄暗い寝室。 聞こえてくる寝息。 まるでこの部屋だけが外と切り離され、時間までも止まってしまっているかのようだ。 けれどそれを壊す音が、廊下から響いてくる。 その正体は人間の眠りを妨げるようカーテンに命令した張本人であるはずなのに、これからその本人が自らカーテンを退かし目を焼くような光を室内に招き入れるのだろう。 眠っている人間を起こすために。 コツリ、コツリ、コツリ。 ―――コンコン、 「失礼します、坊ちゃん」 ノック音の数秒後、黒い執事が扉の向こうに現れる。 美しい礼をしつつも、しかしその手には紅茶を淹れるための道具一式を乗せたトレーを手にしている状態である。普通ならばそれを支えたまま、これほどまでに美しく型にはまった礼をすることは不可能だろう。 けれどそのカップ達は一切音を立てなかった。 「まだ眠っておられるのですか」 苦笑とも取れる笑みを浮かべながら執事はベッドの近くにある小さなテーブルにトレーを置き、人間の眠りを守っていたカーテンを勢いよく開けた。 シャッ、という音と共に、光が寝室への侵入に歓声を上げながら入ってくる。 たちまち寝室は明るくなり、カーテンの向こう側の世界と繋がり、一緒の時間を歩み始めた―――それは錯覚にしかすぎないけれど。 「本日はアールグレイですよ」 朝食はスコーンをご用意致しました。 執事はベッドの傍らに戻り、紅茶の用意をしながらまだ眠っている人間に向けて話し掛ける。 しかしその人間はピクリとも動かず、呼吸がシーツにぶつかって奏でられる音を響かせるのみ。 けれどそんなことを気にした様子もなく、執事は話を続けた。 「そういえば白い薔薇がやっと蕾をつけました。心配しなくとも花が咲きましたらすぐに花瓶に入れて坊ちゃんの元へ持っていきますので、今か今かと執務室から薔薇園を眺め続けるのはやめてくださいね」 あれでどれほど仕事が山積みになってしまったか。 紡ぎだしている言葉は呆れたようなものだが、その顔は楽しげに緩んでいて、彼の行為をそこまで咎める気はサラサラない様子が窺える。 むしろそんな彼をまた見たいとでも言うような…―――― そして彼は言葉を続ける。 「まぁもう今は、」 仕事などございませんが。 ずっと屋敷の敷地を震わせていた鳥の鳴き声が、ピタリと止んだ。 『如何しましたか』 呼び名に答えた自分はきっと、笑ってなどいなかった。 「しかし坊ちゃんのお寝坊はいつまで経っても治りませんね」 執事はため息をつきながら、白いシーツの山を眺めてクスリと笑う。 「失礼しますよ」 同じ白い手袋をした彼は、そのシーツを握り引っ張り上げる。 スルリと退かしたシーツの下からは、この屋敷の主である人間の姿が。 まるで猫のように丸まり、瞳を閉じたまま息をしていた。 「坊ちゃん」 閉じられたままの瞳に、執事はしゃがみ込み頬を軽く叩いて目覚めを促す。 それでも彼の瞳は開かない。 再度頬を軽く叩きながら名前を呼べば、 「・・・・」 長い睫を震わせて、その瞳を開けた。 「おはようございます、坊ちゃん」 今日もお寝坊ですよ。 その瞳を覗き込み笑顔で言い放つ執事がかすかに安堵の息を吐いたことを、この寝室にある道具たちは皆知っていた。 けれど彼らには口がないので、それを指摘することはない。 目を覚ました人間の瞳は寝ぼけているかのようにボンヤリとしていて、焦点はどこにも合っておらず。 蒼と印が刻まれている瞳は、どこか別の世界を眺めているようだ。 目の前にいる執事の姿など、どこにも映っていなかった。 「…本日はアールグレイですよ」 「・・・・」 「お飲みになられますか?」 「・・・・」 「……それとも、まだお休みになられますか」 「・・・・」 彼は答えない。 まるで人形のように口を閉ざしたまま。 けれど人形ではないだろう、息“だけ”はしているのだから。 「坊ちゃん」 そんな人間を見ながら、ここで初めて執事は笑みを消した。 軽く叩いていた頬を、今度は労わるように撫でて、赤い瞳を映り込ませるように顔を近づけて。 そしてまるでお祈りでもするかのように、または懺悔するかのように額と額を合わせて言う。 「今日も“1日”が始まりますよ」 きっとこの台詞は彼の絶望だろう。 ――――そう分かっていながら執事は毎日、毎朝言う。 自分の気持ちを伝える為に。 まだ、解放する気はないんだということを。 今日も魂は、喰らえない、ということを。 『明日で全てが終わる』 『…はい』 『長かったな』 悪魔にとっては短いものだったか? ふざけるように笑いかけてくるいつもの彼は、理解できなかった。 どうしてそんなに笑えるのか。 理解、出来なかった。 「さぁ、朝食に参りましょう」 着替え終えた人間はベッドに腰を掛けた状態で、その瞳は何も映しておらず。 姿勢保持以外、腕や足からは力が抜けて、だらんと落ちている。 それでも、 「さぁ…坊ちゃん」 執事が引き寄せるように優しく腕を引けば、人間はゆっくりと、おぼつかない動作で立ち上がり歩き始める。 ゆっくりと、本当にゆっくりと。けれど一歩ずつ、確実に。 結局一口も飲まれることの無かった紅茶はテーブルの上に置いたまま、執事は彼の手を引いて朝食を置いてある部屋へと導いていく。 抱き上げて連れて行く、という選択もあるが、そうしていては筋肉が衰え、立ち上がることも出来なくなってしまうだろう。 それを防ぐために執事は毎日…以前の倍の時間を掛けて部屋へ行くのだ。 これが面倒だと感じたことはない、けれど―――― 「お疲れ様でした」 無事に転ぶことなく辿り着いた部屋、嫌味のような労いを掛けながら椅子を引いて座らせた。 「今持ってまいりますので、少々お待ちください」 落ちることなく腰を下ろす人間を確認した後、執事は一礼して部屋を出ていく。 普通ならば主人がこの部屋を訪れた時にはもう朝食が並んでなければならないのかもしれないが、朝起こしに行く前から用意をしていては料理が冷めてしまうし、着替えたあと用意しに行きたくとも、彼が自ら部屋に来ることはない。 だからこうして主人を待たせるという選択しか出来ないのだ。 まぁ実際は、目を覚ましている彼から目を離したくないというのが本音であり、急いでワゴンに朝食を乗せて部屋へ戻る。 己が目を離している隙に何かがあるのではないかという不安、そして。 己が目を離している間に、彼が正気に戻る可能性だってあるから。 だから彼から目を離していたくない――――いや、目を離しているうちでもいいから正気に戻っていて欲しいという願望も確かにある。 けれど。 「お待たせ致しました」 この広い屋敷の中をものの数分で、息も切らさずに帰ってきた執事を迎えたのは変わらぬ何も映さない瞳だった。 「・・・・」 いい、慣れたことだ。 執事はニコリと笑みを浮かべて、ワゴンを押して室内へ入る。 ふわりと香る美味しそうな匂い、温かさを伝える優しげな湯気。それらを生み出す料理を丁寧にテーブルの上へと並べていき、最後は曇りひとつないシルバーをコトリと人間の目の前に置いた。 「さ、冷めないうちにどうぞ、坊ちゃん」 わざとらしくコツンと足音を立てて一歩下がり、彼の様子を窺う。 「・・・・」 声を掛けられた人間は、やはり動くことはない。 お腹は減っているのか、いないのか。体調が悪いのか悪くないのか。 喋ることの無い彼の心境を知ることなど出来ない。 それどころか、意識があるのかどうかだって定かではないのだ。 それでも。 「…では、失礼しますね」 以前ならば置かれていなかった彼の隣にある椅子に執事は座り、置いたシルバーを再び握る。 そして綺麗に並べた料理を自分の方に引き寄せ、小さく切っていき…それを彼の口へと運んでいく。 「噛んでください」 「・・・・」 「坊ちゃん、噛んで」 強く言いながら、小さく切られた食べ物が入っている口元を撫で、そして顎を撫でる。 それを何度も何度も繰り返し、そしてようやく。 「・・・・」 「―――そう、いい子ですね」 噛んで、飲み込んだ。 それをまた、寝室からこの部屋に来るまでのように、長い時間を掛けて繰り返す。 食べない彼を促し、飲み込ませる。 それは無理やりと言うのだろうか。 いや、その答えは誰にも分からないだろう。 喋ることの無い彼の心境を知ることなど出来ない。 それどころか、意識があるのかどうかだって定かではないのだ。 それでも。 それでも、手を引けば彼は歩き、何度も促せば食べ物も喉を通す。 「美味しいですか?」 「・・・・」 返事はない。 それでも、 この人間は、 彼は、 シエル・ファントムハイヴは、 ここに生きている。 『命令は必要ないな』 『なぜですか』 『なぜって…貴様、悪魔だろう』 それに契約がある。 そう言い切った彼の瞳には信用のそれとは違うが、絶対的な何かがあった。 目の前の悪魔が復讐を終えたのち、魂を喰らうことを疑わない、絶対的な何かが。 その瞳を見つめながら、その目の前に立つ悪魔は思う。 「命令しておいた方がいい」とは口が裂けても言わないだろう、と。 「本日のスイーツはガトーショコラですよ」 食事を終え、空いた食器をワゴンに乗せながら執事はシエルに向けて微笑む。 生クリームも添えましょうか、そう付け足して。 「しかしまだお預けです。スイーツの時間まで待っていてくださいね」 厨房に忍び込んで、つまみ食いも許しません。 そんなことを言わずとも、今のシエルがそんなことをする筈がない。 けれど執事はあの頃と変わらぬ台詞を紡ぎながら、あの頃とは違う行動をし続ける。 それは当たり前であるが故の歪さ。そして、切なさ。 それでもこの執事はシエルに向かって話しかけ続けるのだ。 「この後は何がしたいですか?」 「・・・・」 「昨日は本を読まれましたし、一昨日はチェスもしましたね」 「・・・・」 「久しぶりにダンスの練習でもいたしますか?」 クスクスと笑いながら言い、食器を乗せたワゴンを部屋の隅に追いやる。 これら全てはシエルが眠った後に片付けるのだ。 「あぁ…薔薇の蕾でも見にいきますか」 白い薔薇はシエルのお気に入りだ。 あまり物に執着しない彼が唯一興味を示すもの。 一体白い薔薇のどこに惹かれているのかは分からないが、彼が好きだと言うのならば大事に育て、そして喜ばせるに越したことはない。 「天気も良いですし、気持ちのいい日光も浴びれるかと」 今日は庭で過ごしましょう。 執事は朝と同じようにシエルの手を引き、立たせ歩かせる。 「庭まで少し遠いですが、頑張って歩いてくださいね坊ちゃん」 一歩、一歩。 ゆっくり、ゆっくり、 またシエルは歩き始める。 それを優しげな瞳で見つめながら、執事はシエルの手を取り一緒に歩く。 庭に着いた時には、陽はすでに高く昇り切っていた。 「ほら、沢山の蕾があるでしょう」 着いた庭に植えられている白薔薇に執事は指を指し、シエルにそれを見るように促す。 もともと口数が多い方ではなかったシエルだが、以前ならばきっと「あぁ」くらいの返事は返していただろう。 けれど今はその返事すらない。 「そう遠くない日にきっと咲きますよ」 「・・・・」 「楽しみですね、坊ちゃん」 『そうだな』 過去の記憶から、遠い世界から、彼の声が執事の耳を擽る。 「一番最初に咲いたものを執務室に飾りましょうか」 「・・・・」 『それは嫌味か』 「仕事がはかどるようにするのも執事の勤めですから」 「・・・・」 『何が執事の務めだ。貴様の場合はただ自分の為に、だろうが』 重なる、声、声、聲。 聞こえない、 聞こえる、 けれど結局それは、 「そういえば、どうして坊ちゃんはこの花がお好きなのですか?」 「・・・・」 『―――――」 過去の記憶でしかない。 自分が知らない答えを、その聲が教えてくれるわけがない。 「白いその姿が、お気に入りなのですか?」 「・・・・」 「穢れもなく、真っ白で“無”を連想させる、その姿が」 何も言わないシエルの手を取り、白薔薇の蕾に触れさせる。 白に伸ばす、小さな手。 (――――あぁ) まるであの時のようだ。 『洗え、今すぐに!!』 『赤い、全てが赤いんだ』 『悲鳴が聞こえる、断末魔が、ずっと、ずっとッ』 なぁ、セバスチャン。 雪の中で伸ばした手は、どこまでも血に染まっていて。 その美しい白銀の世界を、どこまでも汚していく。 それを彼自身が一番分かっていた。 『なぁ、セバスチャン』 その重さを、 その笑みを、 けれど、 『やっと終わったな』 この執事は、 悪魔は、 セバスチャン・ミカエリスは、 一番分かっていなかった。 彼が今の状態になってしまうまで、そう時間は掛からなかった。 幼少時代ではどんな人格だったのかは知らない。けれど裏社会に生きる彼の痛々しい後ろ姿を見る限り、根は優しい少年なのだと窺えた。否、だったのだ、の方がいいだろうか。 常に復讐に心を燃やしていた彼。 その炎こそが彼の生命であり、息をするためには必要不可欠なものだった。 “復讐心”があるから、彼はシエル・ファントムハイヴとして歩むことが可能だったのだ。 憎悪の心はどんな心よりも強いもの。 その心で全てを支えることは、さほど難しいことではない。 いや、さほど難しくないからこそ厄介な心なのだ。 では、その炎が消えてしまったら。 彼の生命であるソレがなくなってしまったら? 復讐心があるから歩めた道。 憎悪があったからこそ、殺めることが出来た人々。 根は優しいものであった筈の彼が鬼になることが出来た、その心。 それが無くなってしまったら・・・――――? その結果が、 今の彼だ。 復讐の舞台が幕を閉じたのは、真っ白な雪の中でだった。 数年かけて探し出した相手。 全てを狂わせた相手。 何よりも、誰よりも、目の前に現れた悪魔よりも許せない相手。 『なぁ、セバスチャン』 雪の中で混じる赤い色と、火薬の匂い。 そして今まで聞いたことのないほど、穏やかなシエルの声。 『やっと終わったな』 掴んでいた拳銃を放り捨て、その手でどこか虚空を掴みとる。 ワナワナと震えたそれは、歓喜か。 『長かった、凄く…長かった…』 『・・・・』 『それも、やっと、終わった』 終わったんだ。 言いながらシエルは親指に嵌めていた大切な指輪を抜き取り、それを復讐した相手の目の前に落として。 ――――バキリ 何の罪もない雪と共に踏みつぶした。 『坊ちゃん…』 あんなにも大切にしていた指輪を自ら踏みつぶす行為。 それはもうシエル・ファントムハイヴでいる必要がなくなったという証なのか、それとも復讐の切欠となったソレすらも憎らしくて潰したのか。 いや、きっともっともっと複雑な心境なのだろう。 悪魔の自分には分かり得ない、もっともっと悲しくて、痛くて、それなのに幸福なものなのだろう。 『感謝は、しない』 『え?』 後ろからただ見守っていたセバスチャンにシエルは振り返る。 赤い己の瞳に映ったその姿に息を飲んだ。 『貴様は僕の忌々しい過去の象徴だった、だから常に貴様を見ると気分が悪かった』 『ぼ、っちゃん』 『それでも、貴様がいなければ復讐はなしえなかっただろう』 透明な水が、瞳からポロポロと零れている。 汚れきったその身体から、この銀世界にも負けないほどの美しいものを流しているのだ。 (あぁ、歪ですね) 捨てきれなかったものが、復讐を終えた今顔を覗かせ、本来の彼の姿を取り戻そうとしている。 それは今の彼にとっては純粋すぎるもので、汚れきった身体には酷だ。 そのことも理解してしまっている、賢すぎる彼はその涙を拭うことはせずに歪と化してしまった笑みを浮かべ、セバスチャンに言う。 『ご苦労だったな、悪魔』 名前はもう口にしない。 だってもう全てが終わったから。 契約で、名前で縛るソレなど必要ない。 そう思っているのは、彼ただ独りであるというのに―――― 『セバスチャン、でいいですよ』 『もういいだろう。全て終わったんだ』 あとは貴様の食事の時間だろう? 何も疑っていない瞳。 命令は必要ないと言ったときと同じ。 目の前の悪魔が復讐を終えたのち魂を喰らうことを疑わない、絶対的な何かを宿した瞳だ。 (この人間は、どこまでも可愛そうな方だ) 『食事?何を仰っているのですか』 『あ?』 『契約の対価は貴方の魂、ですがそれを喰らうとは言っておりませんよ』 『は?』 シエルの瞳はセバスチャンの姿を映したまま、疑問の色を浮かべる。 未来にその色すらも浮かべなくなることを、“今”のセバスチャンは知らない。 『確かに悪魔は対価である魂を喰らいますが、それは“絶対”ではありません』 『どういう、ことだ』 『対価に魂を頂戴するとは言いましたが、それを“すぐ”に喰らうとは一言も言っていないということです』 賢すぎる彼には十分過ぎる言葉だろう。 復讐が終わればすぐに喰われると思っていた己の魂。 これは裏切りか?――――いいや、そうではないと彼だって分かっている。 だからこそ、 『命令、しとくべきだった…か』 彼は悪魔を責められない。 『いい、分かった。確かに“すぐ”喰らうなんて貴様は一言も言っていなかったな。だが契約が終わった今、この魂は貴様のものだ』 『えぇ。契約は果たされました』 セバスチャンはシエルを見つめたまま、彼が探し続けた復讐相手の亡骸を一瞬のうちに灰にした。 ゴウと音を立てて燃え盛る炎。 それを背景にして立つシエルの頬には涙の跡が残っていながらも、すでに瞳は乾き切り、終わった筈の契約印を輝かせて。 『では“帰りましょう”坊ちゃん』 まだこの世界に留まることを、 絶望していた。 → next PR |
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