「おい、入るぞ」
ノックも曖昧なまま開く執務室の扉。
それは見知った“友人”だから出来る業だろう。
もしも彼を知っているそこらの人間だったら、そんなことは恐ろしくて出来ない筈だ。
「入るぞって君ねぇ」
扉を開けた向こうから返って来る呆れた声。
けれど友人…ディーデリヒは特に気にしたふうもなく、カツンカツンと硬い足音を立てながら部屋に入っていく。
目線の先には誰もが恐れる女王の番犬。
「ノックという動作がどうしてあるのか知らないのかい?」
ヴィンセント・ファントムハイヴだ。
「別に細かいこと言うなよ」
「君は大雑把過ぎるんだ。あと、もう少し静かにしてくれ」
シエルが起きてしまうからね。
出てきた子供の名前に足を止め、ぐるりと部屋を見渡すと、お客様用の椅子の所に小さく丸まった白い物が見つかる。
先ほどとは逆に1つも足音を立てないで近寄れば、気持ちよさそうに眠っているヴィンセントの息子だった。
「どうやら遊び疲れたみたいだよ」
「そうか…」
「ということで君が座る椅子は無いから」
「おい」
サラリと言われた言葉にディーデリヒは元々刻んでいた眉間の皴をより深く刻んで振り返る。
けれど相手は悪気など全く無い、綺麗な笑みを浮かべるだけ。
長い付き合いのため、ヴィンセントがこういう性格なのは知っているが、それをすんなりと快く受け止められるかという話しはまた別だ。
それでも結局ディーデリヒはため息をつき、頭を掻きながらヴィンセントの後ろにある窓枠まで行き、そこに腰を下ろした。
あんな子供を起こしてまで椅子に座ろうとなど思わない。
「全く。お前が人の父親になれるとはな」
トーンを落とした声で言えば、ヴィンセントは自分が座っている椅子をクルリと回し、ディーデリヒと向かい合う。
「いや、まずお前が誰かと結婚するとは思わなかった」
「結婚すると言った時、君は随分と驚いていたものね」
「当たり前だ。お前みたいな化け物が人を愛せるとは思ってなかったからな」
「化け物呼ばわりとは。酷いよ」
「真実だろ」
クスクスと笑うヴィンセントにそう言えば、まぁね、と返される。
「化け物ぐらいじゃないと、この仕事はやっていけないよ」
「開き直るな」
「それに化け物だって一応愛を知っているしね。レイチェルのことだって、シエルのことだって愛しているよ」
「もし本当に愛しているならお前は」
「・・・」
言おうとしている言葉を予測したのだろう。
ヴィンセントは浮かべていた笑みを一瞬にして消し、鋭い眼で睨みつける。
ディーデリヒはその眼を見て口を閉ざした。
これ以上言ったら殺されるから?
それもあるかもしれないが。
運命から逃れられない犬を少々哀れに思ったから。
代わりに少し違う角度からの話しに切り替える。
「息子はこれからどうするつもりだ」
「シエル?どうするって?」
「この仕事を継がせるのか」
「当たり前だろう。シエル以外に誰がいるっていうんだい?」
鋭い眼はそのままに、一応口元だけはいつもの弧を描き始めたヴィンセント。
どうやらこの角度の話しならば触れても大丈夫らしい。
ディーデリヒは目線をずらし、気持ちよさそうに寝ている子供へと視線を向ける。
「今こんなにも純粋に育っているのに?」
「純粋に育っている、ねぇ」
息を吐きながら肘掛に肘を置き、頬杖を付く。
「今のうちに夢を見させておかないで、いつ夢を見させるというんだい?」
「夢から覚めた時が可哀相だろうが」
「…優しいね。ディーデリヒは」
「これが世間の一般論だ」
「世間?でもここは裏社会だ」
黒くドロリとした声。
父親なんて肩書きは、まるで作り物のようだ。
先ほどはその口から、愛しているという言葉を放っていたというのに。
「それに少しは純粋さを知っていないと、表の人間に手を出すような子になってしまうからね」
「あくまで今の教育も、将来の為ってワケか」
「まぁ、そうとも言えるかな」
「…妻は何て言ってるんだ」
「別に。何も言って無いよ」
レイチェルは聞き分けが出来る人間だから。
視線をヴィンセントに戻してチラリとその顔を見れば、どこか遠くを見つめる眼をした顔が視界に映った。
「裏の社会があることは知っているけれど、それ以上のことも教えてないし。聞いてもこない。賢い子だろ?」
「防衛本能か?」
「…少しは僕の奥さんを褒めてくれないかな」
まぁいいや。
相手が褒めるような人間ではないと知っているのか、ヴィンセントは早々に諦めた。
「そんな母の血と僕の血を分けた子だ。きっといい番犬になるよ」
「そんなこと言って、もし継がないと嫌がったらどうするんだ」
ディーデリヒはため息をつきながら言った。
すると一瞬ヴィンセントはキョトンとしたような顔をしたが、すぐに自信満々に笑う。
漆黒の艶を宿しながら。
「さっき君は僕を“人の父親”と言ったね」
そして。
指に光る指輪を撫でながら。
「蛙の子は蛙。ならば化け物の子は?」
ヴィンセント・ファントムハイヴは言う。
「結局シエルも化け物なんだよ」
僕と同じ匂いがするからね。
数年後。
「やっと帰ったな」
「お疲れ様でした」
シエル・ファントムハイヴは執務室の椅子に座りながらため息をつく。
先ほど、婚約者のリジーをなんとか帰らせたところだった。
「毎度ながらリジーには困ったものだ」
「おや、その毎度がいつも楽しそうに見えますが」
「お前の瞳にそう映るのならば、別にそれでもいい」
どこか不機嫌に頬杖をつく主人をセバスチャンはクスリと笑う。
「ですが、いいのですか?」
「何がだ」
「あのように接していて」
悪魔らしい響きを持って紡がれる言葉。
シエルは何も言わずにそんな悪魔を見つめ返すが、特に何も出てきやしない。
憎たらしい笑みが返されるだけだ。
「別に幼馴染として接するくらいならばいいだろう。本当に結婚することになったら不味いとは思うがな」
「そこまで生きているご予定ですか?」
「馬鹿を言うな。もっと早く復讐するに決まっている」
自分の魂は悪魔に喰われるもの。
そう遠くない筈の未来に、リジーや他の人たちとの別れが必ず来る。
その別れを悲しむのが目に見えているからセバスチャンは先ほどのようなことを言ったのだろうけれど、それは決してリジーを哀れに思ったからではないだろう。
ただ、人間であり主人であるシエルを試してみたかっただけだ。
何とも嫌味な悪魔らしい。
「そういえば、坊ちゃんは幼少の頃は女王の番犬について知っていたのですか?」
「いや、特には聞かされていなかったが…」
そこで言葉を止める。
聞かされてはいなかったが、全く知らないというわけではなかった気がする。
だが、直にソレについて話しをした記憶もない。
女王の番犬について全て知ったのは、三年前ここに座ろうと決めた時だ。
「先代がどのような仕事をしていたのかなどは、当時の僕は全く知らなかったな」
「では番犬としての教育はされなかったと?」
「なんだ、番犬としての教育って」
セバスチャンの口から出た単語に苦笑する。
だが言うなれば、あの一ヶ月が番犬としての教育に値するかもしれない。
「もしも、ですよ」
珍しく歯切れ悪く言う悪魔。
まず“もしも”の話しをすること自体が珍しい。
過去は過去。過ぎたものは変えられないことを常日頃に言っているのに、だ。
一体なんの話しが出てくるのかと、若干身を引き締めながら、そして期待しながら待った。
そして出た言葉は。
「もしもあのような事件が起こらなかったとしても、貴方は女王の番犬を継いでいましたか?」
なんとも言えない問いかけだった。
シエルは頬杖をついたまま少しだけ目を見開き、固まる。
けれどすぐに息を吐き、瞳を閉じ、また開く。
開いた瞼から覗いた眼は鋭く輝いていた。
それを見た悪魔は静かに息を飲む。
「継いでいただろう」
「あの頃の貴方が、ですよ?」
「あの頃の僕だって、今の僕だって、元は1つのものだ」
シエルは言う。
「あの頃の僕の中に、この僕はいたんだ」
「…先代たちはそれを知っていたんでしょうかね」
「さぁな」
だがな、セバスチャン。
言いながら酷く愉しそうに微笑む。
漆黒の艶を宿しながら。
「僕は先代の血を引いている」
そして。
指に光る指輪を撫でながら。
「蛙の子は蛙だろ?」
シエル・ファントムハイヴは言う。
「だったら、先代も化け物だったということだ」
きっと同じ匂いを感じていたことだろうさ。
END
****
あとがき
なんだか黒色っぽい話しが書きたい!と思って色々考えた末、ヴィンセント父が
頭に浮かびました(笑)
ヴィンセント父は氷の剣なイメージで、シエルはガラスの剣なイメージです。
今度はもっと悪の貴族ってな感じの話しが書きたいなぁ(笑)

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