「ん・・・」
シエルはゆっくりと瞳を開ける。
ぼんやりと映った視界はまだ薄暗く、執事が自分を起こしに来る前に目が覚めたのだと分かった。
「・・・夢」
夢を見た。
昔に見ていた悪夢なんかではなく、とても甘い甘い夢。
いや、悪魔が出てきていたのだからある意味“悪夢”なのかもしれないが・・・。
それでも自分にとって、目を覚ましたくないと思うほど幸せだった。
しかしそれと同じくらい切なくて、夢の中では素直な自分の瞳には涙が溢れてしまった。
たとえ夢だと言っても、あそこまで素直になるのは考えものだな。
シエルは夢の内容を思い出しながら苦笑する。
だがそれと同時に、頬に、唇に熱が籠るのが分かった。
唇に触れれば、あの時の感触がリアルに蘇ってくる。
ただの夢だったというのに、唇に感触が残っているなんて笑えてしまう。
夢の中で何度もセバスチャンと口付けた。
何度も、何度も、長く、長く。
まるで時が止まり、世界にいるのは二人だけのような錯覚にまで陥った。
けれど勘違いしてはいけない。
あれは夢。ただの夢。これから会う執事と口付けを交わしたわけではない。
現実世界では、無かったことなのだ。夢を見た自分にとっては本物だったけれど・・・。
現実と夢を混合させてはいけない。
だが。
―――もし明日のアーリーモーニングティーにミルクが入っていたら、じっと私の顔を見つめていてください。
夢の中で言われた言葉が脳裏に響く。
一体僕はどういう思いがあって、夢のセバスチャンにそんなことを言わせたのだろうな。
見つめたところで、現実のセバスチャンは首を傾げるだけのような気がするのだけれど…。
今は、シエル自身が首を傾げてしまう。
これから来る片思い中のセバスチャンのことを思うと胸が痛むが、それでも構わない。
夢の中では、いい思いが出来たのだ。それだけで十分。
そこまで欲張るつもりはない。
シエルは切なげに微笑みながら、もう一度シーツを頭から被さる。
そしてどこか意地を張るように目を閉じるが、結局もう一度眠りへといざなわれることなく扉が開く音を聞いた。
― Real Kiss ―
「おはようございます、坊ちゃん」
いつもならばカーテンを開く時に掛けられる声を、今日は部屋に入ってきたと同時に投げ掛けられる。
きっと起きていたことを気がついていたのだろう。悪魔とはどこまで己のことを察知できるのか知りたいものだ。
シエルは妙に高鳴ってしまう心臓を、深呼吸で押さえつけながらシーツから顔を出す。
夢の中であんなに何度も口付けしたことを思うと、なんとなく罪悪感と恥ずかしさでセバスチャンと目が合わせることが出来ず、目線は伏せたままだ。
しかしセバスチャンは特に気にした様子もなく、いつもの通りカーテンを勢いよく開けていく。
「今日もいい天気ですよ」
「…そうか」
「坊ちゃんが好まれる白い薔薇も綺麗に咲いておられます」
「後で覗いてみるとするか」
いつもならば簡単にスルーしてしまう言葉も、今日は受け答えしてしまう。
この執事が自分の見た夢の内容を知っている筈はないと思うのだけれど、やはりそう簡単には割り切れないらしい。
自分の精神の弱さに舌打ちをしたくなる。
相手が裏社会の人間で、己が秩序や番犬の位置に立っている時ならば簡単に仮面をつけられるというのに。
そしてやはりアレは夢だったという現実に痛みが走るなんて、そんな自分を認めたくも無い。
「本日のアーリーモーニングティーなのですが…」
「あぁ」
「ストレートではなく、気分を変えてミルクティーにしてみました」
「…え?」
聞こえてきた単語に、シエルはパッと顔をあげ振り返る。
そこには朝日を浴びながら微笑むセバスチャンの姿。
その表情が、昨夜の夢の姿と重なって見えた。
「今、何て言った」
「本日は甘さたっぷりのミルクティーですよ。坊ちゃん」
「…ミルク、ティー」
「お気に召しませんか?」
「いや、そういうわけじゃ」
ミルクが入っていた。
紅茶にミルクが入っていた。
偶然にしては出来すぎている気がするが、けれどこれが真実だ。
…まさかコレの予知夢だったとか言わないだろうな。
この世界には悪魔というファンタジーな存在がいるのだ。予知夢があってもおかしくはない。
シエルは眉間に皴を寄せてしまう。
「あの…坊ちゃん?」
「あぁ、何でもない。ほら、紅茶を寄越せ」
眉間に皴を寄せたシエルを見ながら不安そうな顔をするセバスチャンに、シエルは手を伸ばす。
どこかいつもよりもぶっきらぼうな言い方になってしまったのは、仕方が無いだろう。
実は若干動揺しているのだ。
まるで夢と現実が繋がっているような気がして…。
「どうぞ」
手渡される紅茶。
中を覗けば、いつもよりも白い色をしている。
セバスチャンが言った通り、ミルクが入っているのだ。
…ミルクが入っていたら、セバスチャンの顔を見つめる。
シエルは夢で言われたことを本当に実行する自分に内心苦笑しつつも、どこか縋る思いでセバスチャンに視線を投げる。
いつもならば、すぐに今日の服を持ってくるセバスチャンだが、今日はどういうわけか紅茶を渡した後、シエルの目の前にそのまま待機していたのだ。
セバスチャンは逸らすことなくシエルの瞳を赤い瞳で受け止める。
その表情はやはりどこか優しく微笑んでいる。
急に唇が熱くなった気がして、シエルは頬を赤く染めて視線を逸らそうとした時。
「聞いて頂きたいことがあります」
それを止めるようにセバスチャンが声を掛けた。
「何だ」
視線を逸らすタイミングを逃してしまったシエルは、逃げるように紅茶に口をつけてミルクティーを飲み込む。いつもの紅茶よりも甘い味なのに、どこか身体に染み込んでこないのはなぜだろう。
そんな疑問を頭の片隅で考えていたシエルの前に立っていたセバスチャンは半歩前に進みしゃがみ込む。
そして手を伸ばしてカップを持つ手を両手で包み込み、どこか緊張したように息を吐いた。
「いつからか私の胸の中に、貴方がいつもおりました」
「セバスチャン?」
「悪魔の私にとって人間との生活は面倒なものであり、精神的にも疲れてしまう」
「・・・」
「けれど、私は今の生活が気に入っているのです。貴方が胸に住み始めてから…」
どうしてだか分かりますか?
セバスチャンはカップをそっと取り上げ近くの小さなテーブルに置く。
シエルは問いかけに首を振れば、カップをテーブルに置いた手が今度は頬を包み込み、そっと囁かれる。
「貴方のことを愛しているからですよ」
・・・・。
・・・・・・・。
「は?」
「随分と間がありましたね…」
口元を引きつらせながら言うセバスチャンだが、シエルはそんなことを気にしている余裕などない。
今コイツは何て言った?
自分の耳に入ってきた言葉が信じられず、頭が真っ白になってしまう。
「あ、え…え?」
「…面白い言葉になっておりますが」
「うるさいッ!お前が分かる言葉を使わないからだ!」
「はぁ、もう一度言いますよ?」
「え」
「私は貴方を愛しています」
再び同じ言葉を、今度はハッキリと言われる。
その単語を頭の中でクルクル回しても、同じ意味しか生まれてこない。
そう。セバスチャンは自分を愛していると言ったのだ。
聞き間違いでも勘違いでもない。
今目の前で、彼はそう言ったのだ。
「あい、している?」
「はい」
「う、うそだ」
「嘘なんかじゃありません」
逃げるように俯こうとするが、それを頬を包み込む手で防がれる。
きっと今、情けない顔をしているから見られたくないというのに。
シエルは視線だけを忙しなく動かしてしまう。
「愛しています」
「何度も言うな」
「お顔、真っ赤ですね」
「うるさい、笑うな!」
クスクスと笑う声に怒鳴り返す。
まさかこんなことになるなんて誰が予想しただろうか。
もしかしたら、これも夢の続きなのかもしれない。
そうでなければこんなこと有り得ないだろう。
セバスチャンが、自分を愛していてくれているだなんて。
「これは夢だろ」
「え…?」
「だって、こんなこと現実に起こるわけがない」
言いながら自分の手が震えていることに気がつく。
「きっと僕は夢の続きを見ているんだ」
「坊ちゃん…」
まるで何かを耐えるような声のセバスチャン。
どうしてお前がそんな声を出すんだ。
泣きたくなるのはこちらだと言うのに。
シエルはため息をつこう息を吸い込んだところ、
「ん?」
その息が急に止まる。
いや、正確に言うと唇が塞がれた。
この感触は夢と同じ…。
「んん…?!」
そう。
セバスチャンに口付けられているのだ。
あの時とは違い、思考がクリアなシエルは反射的に抵抗しようと胸板に手を置くが、結局は抵抗という抵抗をせずに、ただ縋りついただけのような形になってしまう。
なぜなら本心では抵抗したいなんて思ってはないのだから。
セバスチャンの唇を受け止めながら、その感触が夢の中よりもリアルに感じられる。
夢の中ではまだ寝起きの寝ぼけた頭であったし、夢の中だと安心して思考をしっかり働かせていなかったということもあり、やはりどこかフワフワしていた状態だったのだ。
しかし今は違う。ダイレクトにセバスチャンの感触が伝わってくる。
ということは。
「夢ではないと、お分かりになりましたか?」
唇を剥がし、じっと見つめながら聞いてくる。
シエルは自分の唇を指で触れて、先ほどの感触を確かめるようになぞる。
これは…本物?夢の続きではない…?
おずおずと視線を上げて、セバスチャンと瞳を合わせれば、再び唇が寄せられる。
今度はそのまま素直にそれを受け止めれば、嬉しそうに唇を啄ばまれる。
何度も何度も、優しく与えられる熱。
夢で学んだように自分も啄ばみ返してみれば、褒めるように親指で頬を撫でられる。
同じ一連の動作に、ドキリと心臓が跳ねた。
「はぁ…」
「お分かりになりました?」
コツリと額と額を合わせながらもう一度同じ言葉を投げてくる。
頬を染めながらも、心の中では大きく頷く。
しかし口から出た言葉は。
「…まだ」
分からないという反対の言葉。
そう言ったにも関わらず、セバスチャンが嬉しそうに微笑んだのが視界に映る。
きっともう夢ではないと分かっていることを知っているのだろう。
なのにシエルはまだ分からないと答えた。
それを指す意味は、なんとも可愛らしいものだ。
「では、分かるまでいくらでも」
微笑んだまま、また口付け合う。
セバスチャンの首に腕を回せば、そのままベッドへと押し倒されてしまう。
それでも口付けが止まることはない。
もう止める必要などないのだ。
これは夢ではないのだから。
「ん…」
自分の早い鼓動に、火傷しそうなほどに与えられる熱。
そして自分と同じくらい早い相手の鼓動。
どれも先ほど飲んだミルクティーよりも。
夢の中で交わした口付けよりも甘い。
僕も愛している、セバスチャン。
甘い熱で溢れた涙が、幸せを抱きしめながら頬を流れていった。
END
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あとがき
『Dream Kiss』の続きは?!という嬉しいお言葉を頂きましたので、書いてみました!
色々不安な点はいくつかあるのですが、大丈夫でしょうか…ね?
ちゅっちゅしている二人も大好きDEAt(殴

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