瞳を閉じたら視界には闇が広がった。
けれどそこに恐怖なんてなくて、あるのはただ生ぬるい粘着感。
息を吸えば、よく鼻腔を擽る甘い香り。
色とりどりのビビットカラーの蝶らは、この甘い蜜に誘われてヒラヒラと飛んでくるのだろうか。
その中に自分も混じっているのかと思えば反吐が出るが、その人気者の蜜を持つ花が自分の元へ向かう為に自ら根っこを引き抜いてきたと思えば愉快になる。
「何か面白いことでも?」
投げ出していた手を掴まれる。
いつもの布地の感触がなく、冷たい皮膚がしっとりと自分の皮膚に吸い付いてくる。
内心で手袋はどうしたと眉を顰めるが、瞳を開けることはしない。
闇に身を預けたまま。
「いや?別に」
「けれどいつもよりも頬が緩んでいますよ」
「気のせいだろう」
そう言えば掴まれている手とは逆の頬に同じ感触が這っていく。
「誘っているのですか?」
「さぁ」
口角を吊り上げて見せれば甘い香りが余計強く鼻腔を擽り、吐息を頬に感じた。
あぁ、口付ける気だな。
此方が瞳を閉じているからって好き勝手にしていいとは躾けていない筈だが。
結局、悪魔に躾けをすることなんて無理だったってことだ。
シエルは空いている方の手を自分の唇に押し当て、口付けを防ぐ。
急な出来事にセバスチャンは身体を止めることが出来なかったのか、それとも止めるつもりも無かったのか、手の甲に相手の柔らかい唇が触れた。
「・・・どういうおつもりで?」
「それをそっくりそのままお前に返す」
シエルは哂う。
「いきなり口付けなんてされそうになったら驚くだろう」
「貴方がそこまで純粋な方だったとは今初めて知りましたよ」
「主人に対して勉強不足だな」
「・・・そろそろ目を開けても宜しいのでは?」
嫌味に対しては反応せず、セバスチャンは言った。
暗闇の中で響く声はいつもよりも鮮明で分かり易く、相手が何を考えているのかを明確に伝えてくる。
けれどシエルは唇を守ったまま首を横に振った。
「嫌だ」
「そんなにも闇と逢引していたいと」
「あぁ」
「そこで頷きますか」
苛立ちを隠しもせず、セバスチャンはそのままシエルを押し倒し覆い被さる。
完全包囲された感覚が妙に心地よくて、唇を守っていた手をどかそうか迷う。
このまま焦らしていても全て自分に返って来るのだからそろそろやめとこうかと思うが、全部をセバスチャンの意のままに進めるのも癪だ。
シエルはセバスチャンと口付けをするのではなく、自分の手の平に口付けてリップ音を大きく響かせる。
自分が一体何をしているのかを知らせる為に。
「・・・いい度胸ですね」
「いッ!」
骨が悲鳴を上げているんじゃないかと思うほど力強く手首を握られ唇から引き剥がされる。
そして唾液の付いた手の平に舌を這わせ、上から新たに口付けするかのように唇を寄せた。
ゾクリと背筋が震える感覚に瞼を上げてしまいそうになりギュッと力を込めるが、自分だけを見つめるあの赤い瞳が急に恋しくなり瞳を開けようとすれば。
「おあずけです」
今度はセバスチャンの手がシエルの視界を塞ぎ、闇の世界へと落としていく。
闇と逢引していたことに怒っていたくせにと悪態をつけば、そのまま口までも塞がれた。
焦れた悪魔からの口付けは性急で息が追いつかない。
それでも負けじと自らも舌を絡めセバスチャンに縋りつけば、視界を塞いでいた手が腰に回され瞳が自由になる。
久しぶりの外の世界に立ちくらまぬようゆっくりと瞳を開ければ、厭らしく笑う悪魔の顔が映りこむ。
「セバスチャン」
「坊ちゃん」
欲していた赤い瞳が目の前にあり、シエルはどうして瞳を閉じていたのだろうと考えた。
だが答えなど出ない。
自分は酷く気まぐれだ。きっかけなんて些細なことだし、きっかけすら無いかもしれない。
ただ理由を後から付けるとすれば。
「貴方は私のものですよ」
ただこの悪魔に“馬鹿みたいな嫉妬をさせたかった”でもいいだろう。
シエルは満足げに微笑みながら今度は自らその唇に口付けた。
End

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