一度許してしまった行為を、もう一度禁止することは難しい。
歪ませてしまったルールを元に戻すのと同じくらい難しいことだ。
例えば。
もしも昨日許した行為を今日は許さないとしたら、相手からは文句の言葉が飛び出すだろう。
なぜだと聞かれたら一時しのぎの嘘はつける。だがそれを永遠に持たせることは出来ない。
一度はその行為を許してしまったのだから。
だから本当ならば、一度でも許してしまうべきではなかった。
きっちりと線引きをしてそこから一歩でも踏み出したのならば処罰を与え、決して許してはいけなかったのだ。
そう。
セバスチャンとの口付けを許していいわけがなかった。
今後、あの悪魔が口付けようとしたら僕は拒否するだろう。
だがきっと奴は嫌味ったらしく“あの時は受け入れたでしょう?”と哂うに違いない。
そう言われたらもう僕はなす術が無い。
今どんなに嫌がったって、あのとき僕はセバスチャンの口付けを受け入れてしまっていたのだから。
けれどきっと僕は拒否するだろう。
どんなに奴から正論をぶつけられても、どんな嫌味を言われても。
もう口付けを二度と許すことはない。
― Spicyな罠 -
(と、思っていたんだがな)
シエルは紅茶を飲みながら息を吐いた。
チラリと視線を投げれば、そこには先ほどから考えていた悪魔の姿。
その悪魔は先ほど渡した書類を真剣な顔でチェックしていて、こちらの視線を気にしている様子も無い。
そんな姿を見たのは、告白されて以来はじめてだ。
いつもなら今のようにシエルが休憩している時間は嫌味の言葉があちこちに飛び回りつつ、最終的にはセバスチャンに迫られている形になっている。
毎回それもどうなんだと思わなくも無いが、今のような“当たり前”に近い状況の方が妙な感じがしてしまう。
ここでセバスチャンが自室に戻り、そちらの方で書類のチェックをするのならば本来の“当たり前”に戻り、違和感もなくなるだろうか。
告白前と告白後の中間のような今の状態だから違和感があるだけで・・・。
そこまで考えてシエルは紅茶に視線を戻し、カップに口をつけた。
珍しく今日は甘いミルクティー。
身体に甘さが染み渡り、疲れがどこかへと抜け出ていくような気がするが、何か1つ物足りない。
違和感だらけのこの現状。
しかしその答えをシエルはすでに導き出している。
(静か、だな)
セバスチャンが何もしてこない。
一度口付けを許してしまったにも関わらず。
正直予想外の展開なのだが、シエルにとって嬉しい誤算でもある。
もしかしたらもう自分に厭きたのかもしれない。
それは喜ぶべきところだ。もう迫られる心配もないのだから。
けれど。
(あーくそッ)
全て呑み終える前にカップをソーサーに戻し、椅子の背もたれに寄り掛かる。
“けれど”の先は嫌でも考えたくない。
分かってしまっているからこそ、考えたくないのだ。
「・・・セバスチャン」
「はい」
呟くように呼べば、セバスチャンは書類からシエルの方へと視線を向けてくる。
そこには何も含まれておらず、ただ呼ばれたから向いただけだという純粋なものであった。
それに対してなぜか苛立ちを感じ、シエルは疲れたような声音を隠すこともなく言う。
「部屋から出て行け」
「・・・なぜですか」
「書類のチェックなら貴様に与えた自室で出来るだろう」
「ここでしていてはお邪魔、ですか?」
「あぁ。ゆっくり休めない。一人にさせろ」
「御意」
「・・・・」
ここで聞き返さなかった自分を褒めてもいいと思った。
シエルはセバスチャンが恭しくお辞儀をし部屋をあとにする背中を、瞳を大きく見開いた状態で見送る。
あんなにも、あんなにも出て行けと言っていたにも関わらず此処に居座った悪魔が。
たった一言で出て行った・・・。
(どういうことだ?)
シエルは本来当たり前のことが信じられず、そのまま固まってしまう。
だから気がつけなかった、いや、シエルの位置からは見えなかった。
出て行くセバスチャンの口元が悪戯気に歪んでいたことを。
「・・・何なんだ、本当に」
何も知らないシエルは、クシャリと前髪をかき上げ息を吐く。
やはりもう自分には厭きたのかもしれない。
「あんなにも好きだ好きだとほざいていたくせに」
こんなにもパッと心を切り替えることなど出来るのだろうか。
いや、相手は悪魔だ。きっとそんなもの簡単に出来るのだろう。
やはり悪魔は所詮悪魔だったということだ。
「信じきる前でよかったな・・・」
どこか無意識に呟き、シエルは冷めたミルクティーを口に含んだ。
これから口付けをどうやって避けようか悩んだ自分が馬鹿だった。
そんなもの必要なかったのに。
これで無駄な心配事もなくなったし、仕事にも集中できる。
全て忘れてしまえばいい。
前に忘れられなかったのは、セバスチャンに迫られている現状の中にいたからだ。
元の生活の姿に戻った今ならば、もう忘れることが出来る。
だから。
『私の唇は柔らかいですか?』
―――あぁ、柔らかい。
だから忘れよう。
『温かい?それとも冷たい?』
―――少し冷たい。
あんな馬鹿げたことは。
『私の唇の感触を憶えましたか?』
―――憶えた。
違う、忘れたんだ。
「だぁぁぁぁッ!」
ゴンッと大きな音を立てて、カップをソーサーではなく机に置く。
そして少し紅茶で濡れた唇を手の甲でゴシゴシと拭い、頭を抱えた。
「簡単に忘れられるわけないだろうがッ!」
きっとこの声はセバスチャンにも聞こえてしまっているだろう。
だが、構わない。勝手に哂っていろ。
こっちはこっちで勝手に喚いて呪って祟ってやる。
全部が全部はじめてだったんだ。
あんなふうに告白されたのも。
あんなふうに迫られたのも。
あんなふうに口付けられたのも。
こんなにも、掻き乱されたのも。
全部ぜんぶ、初めてだった。
違和感?あるに決まっているだろう。
あんなに日々迫られていたんだ。
急に愛も囁かなくなったら妙に感じるに決まっているだろう。
別にもう厭きられたからといって、泣くような自分じゃない。
そこまでアイツに執着していなかったし、自分の心を渡したつもりもない。
だが、ここまで掻き乱しておきながら、はいそうですかで許してやれるほど心も広くない。
「・・・殺してやる」
寂しいわけじゃない。
悲しいわけじゃない。
けれど、どこかがスースーするのはもう認める。
ミルクティーの甘味じゃ足りない。
― 何か1つ物足りない ―
そうじゃない。
それだけじゃ物足りない。
もっともっと甘いものを知っている。
うざいくらい甘ったるくて、面倒くさいほど甘さが後をひいてくるものを。
「・・・ふん」
シエルは行儀悪く椅子の上に足を乗せ、いわば体育座り状態で唇を尖らせる。
この怒りをどのようにぶつけてやろうかと考え始めるが、急に瞼が重くなり、眠気が包み込んできた。
「・・・?」
怒りは意外と多くの体力と精神が削られるからだろうか。
少しの疑問を持ちながらもウトウトしてきたシエルは抵抗することもなく、襲ってくる睡魔に身をゆだね瞳を閉じれば。
そのままシエルは眠りへと誘われていった。
少し冷たい感触が、頬を撫でる。
そぉっと、そぉっと。
まるで宝物でも扱うかのように、優しく、柔らかく。
『坊ちゃん』
小さな声が響く。
その声は聞き間違えようのない、あの悪魔の声で。
(ゆめ?)
ボーっとした頭で考えるも、上手く思考回路が働かない。
まるで水の中に沈んでいるかのように身体を動かすこともままならない。
けれど自分に触れてくる感触は、しっかりと感じることが出来る。
そして、あの悪魔の声も。
『愛しています』
(うそだろう、きさまはもうあきたんだ)
『ずっとずっと愛していますよ』
(ならどうして)
『坊ちゃん』
ちゅっ、と頬に柔らかい感触。
それは忘れたくても忘れられなかった感触で、酷く泣きたくなった。
夢の中でもこんなリアルに再現されるなんて、どれほどなのだろう。
しかし唇じゃなかったのは自分の夢らしくて笑えてしまう。
『信じてください』
(せばすちゃん)
『私は貴方を愛しているんです』
(・・・・)
『何があっても、私は貴方を愛していますよ』
信じるも信じないも、貴様の方から厭きたのだろう。
そう思っても、冷たいはずの唇が寄せられた頬は熱を持って温かい。
それも可笑しな話だと、またシエルは笑って。
まぁ。
夢の中の貴様なら、信じてやらないこともない。
どこか安心した気持ちで、そう思ったのだった。
「ん・・・」
意識が浮上し、シエルは瞳を擦りながら伸びをする。
寝ぼけた頭でよく寝た・・・と考えたところでハッとし飛び起きれば、先ほどいた部屋が視界に映る。
が、椅子の上ではなく、ソファの上にいた。
どうやら椅子の上で眠っている自分を見つけ、ソファに横にさせたらしい。
(じゃぁ、やはりさっきのは夢・・・)
かと思おうとしたが、すぐにその考えは停止する。
「・・・・」
眠っていた自分に掛けられていたものは、黒い燕尾服。
どうやらソファに移動させたのはセバスチャンらしい。
ただそれだけならいいが。
ゲームの天才と呼ばれているシエル・ファントムハイヴがこのパズルに気が付かない、そして解けないわけが無かった。
急によそよそしい態度。
珍しくミルクティー。
一言で部屋を出て行った悪魔。
ふと訪れた睡魔。
そして、あの夢。
カチリカチリと音を立てながらはまっていくピース。
証拠はない、根拠もない。だが、あまりにも綺麗にはまりすぎる。
きっとワザとはまりやすいピースを選んだのだろう。
シエルが全てに気が付くように。
「・・・やられた」
シエルは再び頭を抱え、大きなため息をついた。
これは全て罠だったのだ。
セバスチャンのことを考えさせるよう設計された罠。
シエルはそれにまんまと嵌ってしまったということだ。
だから、さきほどの夢も夢ではないということで。
― 夢の中の貴様なら、信じてやらないこともない ―
そう思った自分の言葉も、本物だということで。
ということは。
「~~~~~~ッ!」
頬が熱くなってくるのを感じ、シエルは唇を噛み締めた。
あんなにも怒っていた感情までも奴の計算のうちだったというのか!
「最悪だッ!」
自分を温めていた燕尾服を床に投げ捨てて立ち上がり、怒りのままにそれを踏みつけ、扉の向こうのどこかにいるセバスチャンをギラギラと睨みつけながら口元に弧を描いた。
まんまと引っかかった自分にもイライラするが、こんな悪質な罠を仕掛ける悪魔の方が問題だ。
主人に対して、大層なことをしてくれるじゃないか。
なぁ?セバスチャン。
「絶対に殺してやるからな」
再びそんな物騒な言葉を呟き、心で誓うシエルであった。
END

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