「セバスチャン」
凛とした声に呼ばれる名前。
甘美なる魂に名前を呼ばれるだけで身体が歓喜にわななくのに、それに加え愛しい人に呼ばれたとなると・・・。
ずっと名前を呼んでいて欲しいと思ってしまう。
のですが。
「セバスチャン」
「あの、坊ちゃん?」
本当にずっと名前を呼ばれていると、困ってしまうものなのですね。
― Sweetの理性 -
「今度はどうなされたのですか?」
セバスチャンは苦笑しながら、しかし内心汗をかきながら執務室の椅子に座るシエルに尋ねる。
本日名前を呼ばれたのは、これで20回目。
朝起きてから、5時間しか経っていないにも関わらずだ。
しかもその内容は。
「どうやら今日の夜は雨が降るらしい」
他愛の無いものばかり。
もちろん、名前を呼ぶ中にも必要な命令であったり、仕事についてのことだったりもするのだが。
ほぼ他愛の無い話しと言っても過言ではないだろう。
無駄な時間を過ごすのを嫌うシエルだが、この行為には一体何の意味があるのだろう。
セバスチャンは主人の行為の意が分からず、首を傾げてしまう。
「そうですか。では夜は気温が下がるでしょうから、部屋を暖めておきましょう」
しかし主人に名前を呼ばれれば答えるのが執事。
ファントム・ハイヴ家の執事たるもの、主人の不思議な行動に付き合えずにどうします?
けれどやはり疑問は募るばかり。
先日までシエルはセバスチャンを避けていた。
裏庭にまで逃げるという、見事な避けっぷりだった。
だが、そう簡単に逃す執事、否、悪魔ではない。
裏庭まで追いかけ、きちんと自分の腕の中へと収めた。
セバスチャン自身が嫌で逃げていたのならば、そう簡単にはいかなかっただろうけれど、シエルはただ己が好きな相手が自分のことを好きだという真実に対して、戸惑っていただけなのだ。
本当に可愛らしい方です。
セバスチャンは、その時のことを思い出して無意識に頬を緩ませる。
ところが今日から一転。
シエルは逃げるどころか、セバスチャンの名前を呼び、何度も自分の所へと来させている。
逃げなくなったのは嬉しいのですが・・・これは一体どういう意味なのでしょうか?
避けることは無くなった。
けれど呼び寄せておいて、恋人のように甘い雰囲気になるわけでもない。
坊ちゃんは一体何を考えているのでしょう?
グルグルと思考している中、再びシエルはセバスチャンの名前を呼ぶ。
「セバスチャン」
「はい」
「お前はどこにいても、名前を呼べば僕の傍に来るんだよな?」
「えぇ。この契約がある限り、名前を呼ばれればどんな場所であろうと貴方の元へ行きますよ」
シエルはとおに分かっているであろう答えの質問を投げつけてくる。
名前を呼べば来るというのは、シエル自身が一番理解していることの筈だ。
もしや坊ちゃん!
セバスチャンはハッとする。
「ですが、名前を呼ばずとも貴方が私を必要としてくださる時はいつでも駆けつけます」
お傍におりますよ。
優しくシエルに言う。
もしや坊ちゃん、ずっと傍についてて欲しいのでしょうか・・・!!
だから私の名前を何度も何度も呼んで、自分の傍にいることを確認しているのでは?!
あぁ坊ちゃんっ!!
セバスチャンはシエルを抱きしめようと、一歩踏み出したところ。
「じゃぁセバスチャン」
あくまで冷静な声音でシエルはセバスチャンの歩みを止める。
「契約を破棄しないで、名前を呼んでもお前の耳には入らないようにするには、どうしたらいいんだ?」
「・・・」
・・・え?
セバスチャンは一歩踏み出した形のまま固まる。
今坊ちゃんは何と?
「あの、坊ちゃん?今何て・・・」
「だから、お前の名前を呼んでも、お前の耳に入らないようにする方法はないのかと聞いたんだ」
「・・・なぜ、そのような方法が必要なのかお聞きしても?」
セバスチャンは崩れ落ちてしまいそうな自身を必死に支えて尋ねる。
『名前を呼んでも、お前の耳に入らないようにする方法』を聞いてくるシエル。
名前を呼んでも、自分の所には着て欲しくないということだ。
やはり坊ちゃんは、あくまで私を避けるつもりなのですか?
セバスチャンは、先ほど浮かれてしまっていた自分がどれほど愚かだったかと自嘲し、息を吐く。
するとそれを見ていたシエルは慌てて、待てセバスチャンっ!と声を上げる。
「お前、何か勘違いしていないか?!」
「勘違い?いえ、今は勘違いなどしていないと思いますが?」
先ほどはしていましたがね。
シエルに聞かれた言葉にショックを受けすぎて、投げやりな態度になってしまう。
執事としての失態。けれど、今はそれを取り繕う余裕もない。
「いや、きっとお前は勘違いをしている!」
シエルは椅子から立ち上がり、小走りでセバスチャンの元へとやってくる。
あまり自分からは動くことのないシエルが、小走りをしたことにセバスチャンは目を見開く。
どうやらシエルはそんな自分に驚いているのだと気がついて、一瞬ムッとした表情をするが、すぐに元の表情に戻る。
そして、セバスチャンの頬に手を伸ばし優しく撫でる。
「説明をしていなかった僕が悪かったな」
「説明?」
セバスチャンは優しく触れてくる恋人の手に、自分の手を重ねる。
「お前は僕が名前を呼べば、それを聞いて傍に来てくれるだろう?」
「はい」
「だから、意味もなく呼んだとしてもお前は僕の傍に来てくれるだろう?」
「・・・?」
シエルの言っていることが、よく分からないセバスチャン。
キョトンとすると、シエルは頬を赤くしてそっぽを向いてしまう。
「僕はただお前の名前をずっと口にしていたいんだが、そしたらずっと毎回お前が僕のところまで足を運ばないといけないだろっ!それじゃぁ、お前の仕事がはかどらない!だから名前を呼んでいてもお前の耳には聞こえない方法はないのかと聞いたんだっ!!」
視線を逸らしたまま、噛み付くように怒鳴る。
頬に触れている手は細かく震え、どれほど恥ずかしがっているのかが伝わってくる。
顔も真っ赤にして唇を噛み締める姿は、まるで泣いてしまいそうだ。
「本当に貴方という方は・・・!!」
セバスチャンはそんなシエルを力いっぱい抱きしめる。
「いや、悪いとは思っているんだ!!お前の名前をずっと口にしていたいだなんて、迷惑なことは分かっている!」
怒ったと思ったのだろうか、焦った声でシエルは言葉を重ねる。
「朝から何度も呼び寄せて悪かった!僕もこんなつもりは」
「坊ちゃん」
セバスチャンはシエルの言葉を止める。
大丈夫ですよ、と囁きながら背中を優しく撫でる。
「別に謝ることではありません。名前をずっと口にしていたいだなんて、嬉しいですよ?」
「・・・だが、迷惑だろう」
しゅんとするシエルにセバスチャンは苦笑する。
困ったお子様だ。もっと素直に甘えてもいいというのに。
「迷惑なわけありません。愛しい相手に名前を呼ばれて、誰が迷惑だと思いますか」
「う・・・」
「何度でも呼んでください。何度でも、何度でも・・・」
「だが、そしたらお前の仕事が・・・」
「では今、気が済むまで呼んでください」
セバスチャンは少し腕の力を緩め、シエルの顔を覗きこむ。
蒼く美しい瞳が少し不安げに揺れているが、しっかりとセバスチャンをその瞳に映している。
「今?」
「はい。今、満足するまで呼べば仕事に支障はございません」
もし今だけでは足りないのでしたら、数時間後にまた来ます。
別に本気を出せば、セバスチャンの仕事は30分で終わるのだが(ディナーの準備も含め)きっとそう言ってもシエルは安心しないだろうから、あえてそう言った。
誰よりも気高くプライドの高い美しい魂だが、優しい心の持ち主だということを、この悪魔はよく知っていた。
「ほら坊ちゃん、好きなだけ名前を呼んでください」
セバスチャンはシエルの唇を指でなぞる。
そんな接触に真っ赤な顔をしたまま、ピクリと反応するシエル。
あぁ・・・この唇に口付けたいですね・・・。
セバスチャンは反応を示すシエルをうっとりと見つめる。
けれど今唇を塞いでしまったら、名前を呼べなくなってしまう。
それでは何の意味もない。
セバスチャンはシエルを見つめたままグッと我慢をする。
「・・・セバスチャン」
しばらく黙っていたシエルだが、ポツリと名前を呼ぶ。
いざ呼べと言われたら、呼べなくなってしまうのが人間というものだ。
それでも・・・時間を少し掛けてでも呼んだシエルは、本当に名前を呼びたかったのだろう。
セバスチャンはそのシエルの想いに胸が焼かれるように熱く感じた。
嬉しいという言葉だけでは足りない、満たされる何か。
欲しいという欲望だけでは足りない、満たされない何か。
「セバスチャン、セバスチャン・・・」
「坊ちゃん・・・」
名前を呟くように呼びながら、シエルはギュッと抱きついてくる。
何度も、何度も名前を呼ぶシエル。
その声は、甘く切なく、時に熱っぽく。
まるでセバスチャン自身を求めているかのようだ。
きっとシエルはそんなこと考えてもいないだろうけれど。
多分どうしてこんなにも名前を呼びたいのかも分かっていないだろう。
もし分かっていたら、素直に『名前を口にしたいだけ』なんて言えないだろうから。
にしても・・・。
セバスチャンは甘く名前を呼び続けるシエルを抱きしめながら苦笑する。
これは何の苦行ですか?
愛する人が自分に抱きつきながら名前を呼ぶのだ。
手を出すなという方が難しい。
けれどここで手を出すのは執事として、否、シエルの恋人としてよくないと思う。
シエルはあくまで名前を呼びたいだけなのだ。
現時点では。(現時点だけだと思いたい)
セバスチャンを誘っているわけでも、焦らしているわけでも、試しているわけでもないだろう。
あぁ、坊ちゃん。早く私自身を求めてください。
以前のことを考えたら、己の手の中にいることさえ大きな成長なのに、1つ得ればまた1つ・・・と欲が出てきてしまう。
その欲望通りシエルの身体を開くことは簡単だろう。なんせ自分は悪魔なのだから。
けれどそれが出来ないのは、本当に心の底からシエルを愛しているからだろう。
本当に愚かになりましたね、私も・・・。
だが、こんな自分が嫌いではないのが不思議なところだ。
「なぁ、セバスチャン?」
ただ名前を呼んでいたシエルが、意を持ってセバスチャンの名前を呼ぶ。
「どうしました?」
セバスチャンは聞き返す。
すると小さくクスリと笑う声が耳に入ってくる。
「やっぱりそうだ」
「え?」
「ただ名前を呼ぶよりも、こうやってセバスチャンが答えてくれる方が嬉しい」
シエルは嬉しそうにセバスチャンの肩に頬釣りをする。
あぁ、本当に・・・。
食べていいですか?
セバスチャンは必死に理性を総動員させて、なんとか冷静に、そうですね、と返した。
END

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