波紋のように広がる感覚。
それは悪魔にとっては“当たり前”に分類されるもので。
いつだってどんなときだって、人間は悪魔に溺れていくものだ。
「これを社別に送っておけ」
「御意」
それはこの人間も同じ。
復讐をする為の駒だと口頭では述べているが、心はどんどんセバスチャンという名の悪魔が侵食していっている。
人間の心に侵食するのはたやすい。
もう永遠とも呼べる生の中、何度見てきたものだろうか。
ソレはもう見飽きたと言っても過言ではないのだが。
(何なんでしょうね)
この人間の心に一つ一つ音を立てて侵食する度に背筋がザワリと騒ぎ出す。
それは快楽と同じ類のもので、妙に気持ちがいい。
悪魔は人間が持つ書類を受け取る仕草をしつつ、わざとその手にスルっと触れる。
手袋越しでも分かる、そのテの感触を持って。
相手もそれに気が付いたのだろう、頬を若干赤く染め、瞳を開く。
気持ちを抱いている相手にやられるのだ、そのまま悪魔の手を握ってもおかしいことはない。
だが、この人間は。
「触るなッ!」
高い音を立てながら、その手を振り払った。
その顔には“欲しい”と書いているにも関わらず。
人間が振り払った拍子に手にしていた書類が、まるで雪のように室内を舞い踊る。
それを見つめながら悪魔は口角を吊り上げた。
音を立てないで積もり行く様は貴方の心を侵食するものと似ていますね、と言えば、この人間はどんな表情を見せるのだろうか。
気持ちがバレていることに焦るだろうか、それとも何を言っているんだとシラを切るだろうか。
しかし悪魔はニッコリ微笑み、申し訳ございませんと、自分が考えていた言葉とは別の言葉を放った。
「…貴様、わざとか?」
「なぜです?」
「書類を受け取るのを失敗しましたなんて貴様は言わないだろう」
「じゃぁ、わざとしましたと言ったら、貴方はどうしますか?」
笑顔をしまって、赤い瞳を輝かせる。
悪魔は遠まわしに『貴方を好きだと言ったらどうしますか』と聞いたのだ。
それは先ほど考えた言葉よりもたちが悪いというのは自分でも理解している。だから、あえてこの言葉を選んだのだ。
「そうだな…」
言われた人間は動揺を隠すように頬杖をつき、考え始める。
けれど目線は決して逸らしはせず、強い眼差しのままだ。
その眼差しに、また悪魔の背筋がザワリと騒いだ。
「もし言われたら、僕は貴様と契約を終わらせる」
人間は言い放った。
そこにはもう動揺など見つからない。
いつもの凛としたシエル・ファントムハイヴの姿だ。
けれど逆に。
「どうしてですか?」
悪魔、セバスチャン・ミカエリスは眉を顰めた。
「どうしてだと?笑わせるな」
シエルは立ち上がり、舞い落ちた書類を一枚一枚拾い始める。
セバスチャンはそれを視界に映すも、動くことが出来ない。
「答えは貴様も持っている筈だが?」
「…そうでしょうか」
「分からないのか」
全て拾い集めた書類をトントンと整え、セバスチャンへと手渡す。
その表情はどこか妖麗で、何かを含めた笑みだった。
「なら、勉強のしなおしだな」
出直して来い。
差し出した書類をセバスチャンの胸に押し当て、手を離す。
すると先ほどと同じように書類は室内を舞い踊る。
今回もシエルの手から落ちたものなのに、なぜかセバスチャンの手から零れ落ちたような錯覚に陥る。
となると。
『音を立てないで積もり行く様は貴方の心を侵食するものと似ていますね』
ではなく、
『音を立てないで積もり行く様は私の心を侵食するものと似ていますね』
となるのだろうか。
足元に散らばった書類を睨み付ければシエルは満足そうに口角を吊り上げ、椅子に座る。
そして静かに、書類を集めて出て行けと命令した。
その時は背筋に流れる快楽はなく、逆に何か針を刺すような痛み。
自分は、否、悪魔はこんなモノを知らない。
この人間がもし、他の人間と同じようなものだったら、きっと酷くつまらなかっただろう。
もしもそうであったならば、きっと自分はもう執事など辞めていたに違いない。
けれど今、どうしてこの人間は他の人間のように堕ちないのかと苛立っている。
他の人間と同じようであって欲しくないと思っているのにも関わらず。
理解できない矛盾。けれどこの矛盾も心地よくて。けれどどこかもどかしい。
どういうことだどういうことだどういうことだ。
どうしてこの人間は自分に溺れない。
どうしてこの人間は自分に堕ちない。
どうしてこの人間は他の人間と違うのだ。
どうしてだどうしてだどうしてだ。
わからない、わからない、理解できない。
どうして自分がこの人間相手に堕ちて欲しいと思っているのかも。
『勉強のしなおしだな』
出直して来い。
聞こえるのはその声だけで。
「…出直して来ます」
悪魔は、否、セバスチャンは拾った書類をシエルのように胸に押し当てることが出来なかった。
End

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