「この世界を壊すには、どうしたらいい」
頬杖をつきながら、シエルはボソリとそんなことを問う。
そこには何らかの感情が含まれた様子もなく、表情も無表情。
セバスチャンは受け取った書類を整理していた手を止めて、そんな主人の方へ向き直った。
「それはどういった意味での“壊す”でしょうか」
「どんな意味もない。ただ壊すのにはどうしたらいい」
「壊すにしても色々な意味があるでしょう。本当に物理的に地上世界を壊すのか、それとも精神的に人間達を壊すのか」
「・・・この世界に何一つ残らないのなら別にどちらでも構わない」
あくまで静かにそう言うシエル。
細められた瞳には一体何を映しているのだろうか。
セバスチャンは近くのテーブルに書類を置いて足音を立てながら近づくが、その瞳にセバスチャンを映すことはない。
「本当に世界を壊すことをお望みで?」
「・・・・」
「もしそうならば一言“世界を壊せ”とご命令ください。多少時間は掛かってしまいますが、貴方の望みどおり世界を壊しますよ?」
マイロード。
頬杖をついている手を取り、もう片方の手で浮いた顎を掬い取れば、やっとシエルの瞳にセバスチャンの姿が映りこむ。
それに満足し、相手からの答えを待てば、聞こえてくるのは小さなため息と、壊す必要はない、という力ない言葉。
「おや、壊さなくて宜しいのですか?」
「・・・本気じゃないとどうせ分かっているんだろう?」
「坊ちゃんの口から出る言葉は私にとってどれも突拍子もないことですので、どれが嘘か本当か見分けづらいものでして」
「嫌味な悪魔め」
シエルは舌打ちをしながら、取られた手と顎を引き戻す。
いつもよりも荒々しいその動きにクスリと笑いつつも、その逃げた手を追いかけるのを我慢する。
きっと今ここでまた無理やり掴んでも、より不機嫌にさせるだけだろう。
「・・・・・・変なことを聞いたな。また数枚書類が溜まったら部屋に呼ぶから、今は下がっていい」
「少し休憩なされては如何ですか?」
「今の無駄話で十分休んだ」
言いながら筆を取るシエルにセバスチャンは瞳を赤く細め、こちらもまたいつもよりも荒々しい動きでシエルの額に掛かる髪を無理やりかき上げる。
「ッ・・・?!」
力が強かったせいか、髪だけではなく顔までも上がり、痛そうな表情をしながら手にした筆を落としたのが端に見えたが、特に気にすることなくセバスチャンは口元を歪めてシエルに言う。
「無駄話?違うでしょう。今のは貴方のSOSなんじゃないですか?」
「なに、を……と、とにかく手を離せ!こんな行為、主人に対して許されると思っているのかっ」
「何を仰いますか。先ほど貴方は私に執事としてではなく、悪魔として話しかけていたでしょう?ならば今私も悪魔として言葉や態度を返すべきかと思いまして」
執事ならば世界を壊すことは不可能。けれど悪魔なら世界を壊すことは可能。
けれどシエルは先ほど“可能”前提に話しをした。
執事の主人としてではなく、悪魔の契約者の人間として。
すなわちそれは、相手を執事として扱ったのではなく悪魔として扱ったということ。
セバスチャンはソレを指摘したのだ。
指摘されたシエルはそれに返す言葉が見つからず、ギリリと歯を噛み締める。
「反論は無し、ですか。今日は本当にいつもの坊ちゃんらしくありませんね。一体どうなされたのですか」
「・・・・」
「いきなり“世界を壊すにはどうしたらいい”だなんて・・・退屈させない人間ですよ、貴方は」
「それは良かったな」
せめてと思い、シエルは髪を引っ張られているような状態で口元に弧を描く。
そこには何の意味もないが、悔しい顔をしているよりはマシだろう。
しかしそれを見たセバスチャンはなぜか自嘲するような笑みを浮かべ、親指でシエルの額を撫で。
「どうして世界の壊し方を訊ねるのでしょうね、貴方は。素直に助けてと言えばいいものを」
悪魔らしい顔をしつつも、誰よりもシエルの心を理解している言葉を吐いた。
いや、悪魔だからシエルの心が分かるのだろうか。
吐かれた言葉にシエルは瞠目し、一瞬だけ世界が止まったような気がした。
「・・・どういう、ことだ」
「そのままですよ。どうして貴方は素直に助けて欲しいと言わないのですか」
いえ、違いますね。
「どうして素直に甘えないのですか、の方が正しいですね」
その声は決して優しくはなく、淡々としている。
なのにシエルの心に一粒の水を染み込ませるかのように浸透してくるのはなぜだろう。
ここで悪魔が何を言う、と哂えたらよかったのだが、今のシエルにそんな余裕はなく、ただ額を撫でた手を振り払い、逃げるように立ち上がるしか出来なかった。
「僕に触るなっ」
「・・・坊ちゃん」
「煩い、僕に一歩も近づくな悪魔」
「どうして怯えるのですか。ただ甘えたらいいと言っただけですよ」
「黙れ」
首を振りながらシエルは一歩下がり、閉まっている窓に背中を近づける。
もしも悪魔が近づいてきたらこの窓を開けて飛び降りてしまおうという愚かな考えが頭に浮かび、手を伸ばして窓の鍵をゆっくりと、見せ付けるように開ける。
きっと頭のいい悪魔のことだ。シエルが何を考えているかなんてお見通しだろう。
これで悪魔は契約を守る為に、自分に近づくことはない。
そうシエルは思っていたのだが。
「坊ちゃん」
「・・・ッ?!」
一歩踏み込んだかと思えばセバスチャンはシエルのすぐ目の前へと移動し、身体を強く抱きしめてきた。
ほんの一瞬の出来事に、頭がついていかないシエルはセバスチャンを拒絶して窓から飛び降りる暇もなく、その腕に抱きしめられてしまう。
「なッ!離せ!離せッ!!」
抱きしめられていると分かったシエルは途端に暴れ、その腕から逃れようとするが悪魔の力に人間が敵うわけもなく。
「疲れたのでしょう?少しくらい休んだらどうですか」
「だから僕はッ!」
「甘えたって坊ちゃんは坊ちゃんだと私は思います」
「もういい加減にっ」
「少し静かにしてください」
それはこちらの台詞だと怒鳴りたくなるような言葉を吐いたセバスチャンは、シエルの頭を掴み、自分の胸板に顔を押し付けて無理やり黙らせる。
口を開いてもモゴモゴとするだけで、言葉を発することが出来ず、シエルは言われた通り静かにならざるおえなくなった。
「・・・・」
「・・・・」
シエルを抱きしめたままセバスチャンも何も言わなくなり、部屋の中がシーンと静まり返る。
外には綺麗な空が広がり、草木も青々と茂っているのに鳥の声1つせず、屋敷の使用人たちの物音や声、爆音なども聞こえてこない。
まるで、世界が滅んだかのように静かだ。
その無音の世界の中に、セバスチャンとシエルが二人きり。
静かな空間のせいか、なぜか妙な安堵感に襲われシエルは瞳を閉じてセバスチャンに身を預けた。
温かくない体温の持ち主に抱きしめられているせいか、まるでぬるま湯に浸かっているかのような心地。
そして。
トクン、トクン、と頬に感じるセバスチャンの鼓動。
それが酷くシエルを落ち着かせた。
実際、シエルは疲れていた。
何に疲れているのかも分からず、けれどなぜかイライラしてしまうという。
自分でもどうしたらいいのか分からない、精神的な問題。
しかしそれをどうこうする気もなければ、時間が経てば治るものだと分かっていたシエルは、ただひたすら不の感情の渦に飲み込まれながら時が過ぎるのを待っていた。
本当に、ただ、ひたすらに。
その中から生まれた“この世界を壊すには、どうしたらいい”という質問。
意味なんてない、ただ聞きたかっただけだ。
情緒不安定な自分は世界なんて壊れてしまえとまで思い、セバスチャンなら世界を壊すことは可能だと分かっていたからこそ、そのことを訊ねたのだ。
けれどそれを実行しようなどとは、全く思っていない。
イライラを少しでも和らげるための質問。
情緒不安定な自分を少しでも安定させようとする足掻き。
そしてそれは。
―――今のは貴方のSOSなんじゃないですか?
「坊ちゃん」
小さな声でセバスチャンは名前を呼ぶ。
その声は本当に小さく、耳を澄まさないと聞こえないくらいの声だ。
「坊ちゃん・・・・・・坊ちゃん」
こちらの返事を求めているわけでもなく、名前を呼びながら、シエルの背中をポンポンと叩く。
まるで子供をあやすかのような仕草。けれどそれ以上何か言葉を重ねることはせず、ただ名前を呼びながら、シエルの背中を叩く。何度も、何度も。
「セバス、チャン」
押さえつけられていた頭が開放され、シエルは少しだけ顔を上げる。
そして同じくらい小さな声で名前を呼び返し、無意識に燕尾服の裾をギュッと握った。
どうしてお前は悪魔なのに優しくするんだ、とか。
どうしてお前は悪魔なのにこんなに温かいんだ、とか。
どうして僕は、セバスチャンに、甘えているんだろう、とか。
頭の中で色々な考えがグルグルと回るが、結局分かるのはたった一つだけ。
イライラも、変なモヤモヤも、全部どこかへと消え去っていったということだけだ。
この、悪魔セバスチャン・ミカエリスに抱きしめられて。
「もう、離せ」
もう少しこのままでいたい気もしたがこのままでいるわけにもいかず、シエルは燕尾服を握り締めたままでいることに気が付かないで言葉を口にした。
すると頭上からクスリと笑い声が聞こえ、抱きしめる力が少し強くなり。
「もう少しだけ・・・」
まるでセバスチャン自身が甘えているような声で、そう言った。
End

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