非力で愚かな人間。
それは私たち悪魔の食料だ。
魂を喰らう為に契約し、願いを叶える。
それは悪魔にとってはただの退屈しのぎであり、暇つぶしだ。
本来ならば契約などせずとも、簡単に魂を喰らうことなど出来るのだから。
今回契約した子供もそうだ。
高貴な魂を持ち、最高級のディナーとなる存在。
しかし結局は矮小なる人間。
契約があろうがなかろうが、喰らうことなどいつでも出来る。
それなのに自分は。
執事として人間にかしずいている。
光
「貴方は使用人に対して、随分と優しいですね」
セバスチャンはどこか嫌味ったらしく言いながら主人であるシエルに紅茶を手渡す。
シエルはピクリと眉を動かしたが怒りを露わにすることなく紅茶を受け取った。
「優しくしたつもりはないがな」
「しかし結果はそのように繋がるでしょう」
メイリンにバルド、フィニにタナカ。
シエルはただの駒だと言うけれど、ちゃんと気にかけていることをセバスチャンは知っていた。
しかしそれを表面に出さないようにしていることも。
この子供は闇を背負う。
けれど根は闇に染まることなく純潔を保ったままだ。
そこには“優しさ”も備わっている。
「なんだ、お前も慰めて欲しいのか」
「貴方に慰められる?可笑しなことを」
セバスチャンはクスリと笑う。
「たかが人間に慰められるほど、落ちぶれてはいないですよ」
「それは良かった。僕もそんな落ちぶれた悪魔など必要ないからな」
ツンとすませながら言うシエルだが、セバスチャンは内心苦笑する。
本当ならばシエルの口からは、どの口がほざいているんだ、という台詞が出てきてもおかしくないのだが、シエルは言わなかった。
それはあえて言わないのか、それとも憶えていないのか。
「坊ちゃんはお忘れですか」
「…何をだ」
「私が執事として仕え始めた頃のことをです」
セバスチャンは音を立てずにワゴンにティーポットを置いた。
あれは、シエルと契約を交わしてから幾日が過ぎた頃だろうか。
今でこそ完璧で有能な執事だが、それは初めからというわけではなかった。
仕え始めた頃のセバスチャンは、人間らしくしていろ、という命令ですら危うかったのだ。
『坊ちゃん、お食事の準備が出来ました』
餌に与える餌。
悪魔の自分が、餌の餌を用意する。
もちろん味なんて分からないし、作り方だって分からない。
前回は顔面に用意した料理をぶつけられ、味がしないと怒られた。
今回悪魔は悪魔なりに人間を学び、作って来たのだが。
『…なんだこの味は』
『お気に召しませんか』
『味はするようになったが、食べられたものじゃない』
『それは申し訳ございません』
今回も主人に気に入られる料理を作れなかったらしい。
人間の食べ物とはなんとも面倒なものなのか。
『街に本が売っている店がある。そこで料理の本を買って真似をしろ』
『御意』
勉強の仕方を命令され、頭を下げる。
やはり人間の食べ物は人間に聞くのが手っ取り早い。
セバスチャンは早速、街に出るため部屋を後にしようとすると。
『貴様は本当に人間のことが分からないんだな』
嘲るような声が背中に掛かる。
セバスチャンは苛立ちを隠しながら口元に弧を描いて振り返った。
『それはそうですよ。餌のことなんか理解しようと思いません』
『だが今は執事だろう』
『執事になったからと言って、人間のことが分かるようにはなりませんよ』
自分が執事としての皮を被ったからって人間が餌だということは変わらない。
この子供に飲み物を渡す時だって自分の中では、燕尾服を着て執事の役柄を演じながら餌である主人に紅茶を与える…というイメージなのだ。
まず餌である存在に仕えろということの方が無理だという話である。
『悪魔のクセに対応力がないな』
『…たかが人間に言われたくないですね』
『真実を言ったまでだ』
『口には気をつけなさい、人間』
セバスチャンは瞳を赤色に染めて、瞬きの間にシエルの首を軽く掴む。
しかし皮膚には爪が少し食い込む程度に。
『契約なんかで自分の身を守れると思ったら大間違いですよ?私はいつでも貴方を喰らうことが出来るのですから』
契約なんて交わさなくとも喰らうことが出来る人間。
こんなのはただの退屈しのぎであり、暇つぶしだ。
気にくわないと思ったのならばいつでも殺せる。
いつでも喰らえる。
悪魔は自分の立場を分からせる為に言うが、人間はむしろ反抗的な態度で笑う。
『はッ。随分とお預けが出来ない奴だ。まるで躾のされていない犬だな』
『なんですって』
『だってそうだろう?永遠を生きるお前らにとって僕の復讐を遂げるまでの時間なんて些細なものだろう。それなのに魂を喰らうことも我慢できない。執事としての役を演じきることも出来ない。悪魔というものは想像以上に使えないんだな』
人間、否、シエル・ファントムハイヴは言う。
『貴様は僕と契約したんだろう。ならばその契約を果たしてみせろ。執事を演じきってみせろ。餌の人間にたかが悪魔だなんて思わせるな』
悪魔を恐れることなく、凛とした声で高らかに。
『全てやり終えた後、悪魔に戻り僕を食べればいい。胸を張ってな』
その言葉にセバスチャンは瞳を見開いた。
なんなんだ、このシエル・ファントムハイヴという人間は。
人間は悪魔を恐れるものだ。
願いを叶えている間は夢に酔いしれて私を求める。
けれど現実に戻れば己の魂を差し出すという最期が待っているのだ。
最終的に行き着くものは“恐怖”
悪魔に対する、死に対する恐怖だ。
なのに、このシエル・ファントムハイヴは恐怖するどころか凛と前を見据えながら己の魂を喰らえと言う。
自ら最期に向き合っている。
非力な、ましてやまだ子供と言える年齢にも関わらず。
最高な魂だ。
いや、自分にとって最高のスパイスだ。
永遠を生きる悪魔にとって、このシエル・ファントムハイヴという人間は求めて止まない存在かもしれない。
もともと舞台に上る気もなかった者を、舞台に導いてくれる存在。
まるでそれは…。
「セバスチャン?」
「あぁ、申し訳ありません」
昔のことを思い出しているとシエルに声を掛けられる。
思い出すということ自体が珍しい。
価値のない知識はあっても仕方が無い。それは思い出も然り。
けれどこのシエル・ファントムハイヴと過ごしてきた時間はそういうものではない気がする。
もちろん決して知識ではない。
しかし思い出とも思えない。
まだ新しい…“記憶”として自分に刻み付けておきたい。
この感覚は何と言うのだろう。
「お前が仕え始めた頃か…」
「今から考えたらまだまだ青い悪魔だったのでしょうね、私も」
「馬鹿か貴様」
シエルはクスクスと笑いながらカップを机に置く。
その仕草はあの頃のまま。
「あの頃のお前の方が悪魔らしかったんだろう」
「では今の方が青いと?」
「そういうことじゃない」
セバスチャンに向けて手を伸ばし、悪戯に頬を撫でた。
その感触に何かがゾクリと震え、無意識にその手を掴もうとすればスルリと逃げられる。
「悪魔以外の感覚も掴み始めてきたということだな」
「それは褒めてくださっていると取っても宜しいですか?」
「褒めてはいない。悪魔というものは想像以上に役に立つんだなと言っただけだ」
あの時に言われた言葉と反対の言葉にセバスチャンは妙に満たされ、逃げられた手を無理やり捕まえて再び自分の頬を触らせる。
シエルは驚いたように瞳を見開いたが、特に抵抗することもなくそれを許した。
「忘れていたわけではないのですね?」
「…何をだ」
「またお得意の嘘ですか?」
「“たかが人間”なんだ。嘘ぐらいならついていいだろう」
「憶えていらっしゃるんじゃないですか」
「…ふん」
少し頬を赤くしながらそっぽを向いてしまう。
他の使用人には見せない姿であると自分は思っている。
だからどうであるということではないけれど。
メイリンは遠くを見ることを。
バルドは守ることを。
タナカは生きることを。
フィニは温かさを。
そして私には悪魔の自分には似合わない、一筋の光を与えてくれた。
“永遠”は、短い命を持つ脆弱な者にとって素晴らしく感じるのかもしれない。
だが悪魔にとってはただの終わらない迷宮だ。
もともと舞台に上がる気もなかった。違う。もう舞台に上がることが出来なかった。
世界の流れから逸する私が舞台に上がることなど出来ないのだ。
けれどこの人間は私を舞台に引きずり上げた。導いてくれた。
貴方は世界から逸した私を導いた光。
何もない暗闇に差し込んだ一筋の光。
貴方は唯一、悪魔の私が自らかしずくことを良しとする存在。
この感情を何と言うのかは分からない。
きっと“まだ”分からない。
分かった時には受け止めてくださいますか?
マイロード。
「坊ちゃん」
「……なんだ」
「あの使用人たちみたいに私も何かくださりませんか?」
もう沢山のものを貰っていると自分でも分かっていながらも悪戯に言ってみれば。
「僕はアイツらに何かをあげたワケじゃない。元々あるものを指差し出しただけだ」
「!!」
「まぁ、もし何かお前にやると言うのなら…」
お前にとっては皮肉かもしれないが。
「僕と契約している間は暇にはさせない、ということだな」
シエルはニヤリと笑い、言う。
その言葉にセバスチャンは瞳を見開いて。
「皮肉では、ないですよ」
「そうか?」
「えぇ。存分に楽しませて頂きましょうか」
シエル・ファントムハイヴ?
頬に触れさせていた手をそっと口付けた。
END

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