ここから出して。 誰か助けて。 誰でもいい。
ここから出して。 誰か助けて。 誰でもいい。
ここから出して。 誰か助けて。 誰でもいい。
誰か。
だれか。
ダレカ!!!!
…誰が?
誰が僕たちを助けてくれるというんだ。
泣いて叫んだって誰も来ないじゃないか。
もういい。
誰も来なくていい。誰も来なくていい。誰も来なくていい。
誰もいなくていい。
誰もいなければいい。
誰も存在しなければいい。
全て全部何もかも、
消えてしまえばいい。
皆の存在
「あぁァあアアぁああ!!!!」
「坊ちゃん?!」
いつもセバスチャンが起こしに来る時間より少し前。
シエルの部屋から痛々しい悲鳴が響き渡った。
セバスチャンは慌てて扉を開け、何事かと部屋に入れば顔を真っ青にして震え上がるシエルがベッドの上にいた。
何度か見たことがある光景。
それはシエルとセバスチャンが出会ってからあまり日が経っていない頃に見たもので、最近はめっきり見ることがなくなっていた。
「坊ちゃん、落ち着いてください」
セバスチャンはシエルに駆け寄り、宥めようと手を伸ばせば。
「ぼ、僕に触るなッ!やめろ、やめろッ!!!」
怯えながらも普段とは考え付かないような力でセバスチャンの手を叩き落す。
どうやらセバスチャンだと認識も出来ていないらしい。
きっとシエルの瞳には、あの人間たちの姿が映っているのだろう。
「坊ちゃん、落ち着いてください。ただの夢です。今は檻の外に居られるのですよ」
そう。
シエルがこういう状態になるのは、あの三年前の出来事の夢を見たときだ。
昔ほど色濃くあの時の夢を見ることは無くなっていたようだが、今日は随分とリアルに再現された夢を見たらしい。
そうでなければ、今のシエルがこのような状況になることはないだろう。
セバスチャンは暴れるシエルの手首を無理やり掴み、焦点を自分と合わさせる。
悪魔の赤い瞳を認識させる。
するとシエルは少しずつ大人しくなっていった。
「坊ちゃん、私ですよ」
「セバス、チャン?」
「はい。私です」
優しく微笑みながら額を辿る大粒の汗を拭ってやる。
自分だと認識したのならば、もう大丈夫だろう。
そう思い、内心ホッと息を吐いたのだが。
「触る、な」
「坊ちゃん?」
「僕に触るなッ。近寄るなッ!」
再びセバスチャンの手を振り払い、逃げるように後ずさってしまう。
「私ですよ?」
「だから何だ!」
「…危害は加えません」
「うるさいッ!僕から離れろ!」
耳を塞ぐようにしながら、なおも身体を震わせるシエル。
このまま自分がいても、この状態は変わらないだろうと判断したセバスチャンは一旦シエルから離れ、距離を取った。
「…出て行け」
「しかし」
「出て行けッ!今日は誰も僕の部屋に入ってくるなッ!!!」
「……何かありましたら、すぐにお呼びください」
今の状態で独りにはしたくないのだが、結局どうすることも出来ずに一礼して部屋から出て行った。
そのすぐ扉の向こうには、心配そうな顔をした四人の姿。
どうやらシエルの叫び声を聞いて、この四人も駆けつけていたらしい。
「坊ちゃん、どうしましただか?!」
「おいおいセバスチャン!坊ちゃんは大丈夫なんだろうな!」
「一体何があったんですか?!」
メイリン、バルド、フィニはセバスチャンに掴みかかるかのような勢いで問いかける。
「皆さん、落ち着いてください」
セバスチャンは手を前に出し、落ち着くように促す。
「ちょっとばかり、嫌な夢を見てしまったようです」
「ちょっとばかりでこんなことになるかよ!」
「まぁ、今回は精神的に厳しかったみたいですね」
「坊ちゃん、独りにしておいて大丈夫なんですか?!」
「誰も部屋に入ってくるな、と…」
「そ、そんな…心配ですだよ」
不安そうな顔をしながら扉を見つめる使用人たち。
セバスチャンも己の主人のことが心配だ。
けれど今は独りにさせて、少し落ち着かせるしかない。
「また少し経ったら様子を見に行きますよ」
ほら、仕事に戻りなさい。
ため息をつきながら言うが、三人は唇を噛み締めながら動こうとしない。
どうしてもシエルのことが心配らしい。
自分は悪魔という存在だが、その気持ちは痛いほど分かる。
だが、今はどうすることも出来ないのだ。
どうしたものかと考えていると。
「大丈夫です」
「タナカさん…」
どこか落ち着いた声が廊下に響く。
そこには、このファントムハイヴ家に伊達に長年勤めていない強さが宿っていた。
「坊ちゃんはそんな弱い我らの主人ではないでしょう」
「そ、そうですけど」
「大丈夫です」
タナカさんはもう一度言う。
「私たちは私たちのやるべきことをやりましょう」
「…俺たちの、やるべきこと…」
「私たちの…」
「僕たちの…」
三人はタナカさんの言葉に何か考え込み、何か閃いたように笑顔を浮かべた。
そして。
「セバスチャン!!」
「「セバスチャンさん!!」」
三人、否、四人はセバスチャンにあることをお願いした。
****
セバスチャンを出て行かせた後、シエルは自分の膝を抱き、ずっと手には拳銃を握っていた。
今自分には契約中の悪魔がいるのだから、何が起こっても大丈夫だと分かっているのだが、それでは不安が拭いきれず、己を守るものを形として握り締めているのだ。
こんなもので本当に己を守れるとは思っていないのだが…。
「は、はは」
小さく乾いた笑い声が、シエルの口から流れ出る。
汗と震えはなんとか止まった。
けれど自分の手は冷たいままだ。
きっと顔も青白くなっているのだろう。
夢を見た。
いや、違う。夢を見たんじゃない。
“過去”を見た。
あの忌々しい過去を。
ここまで再現されたのは久しぶりだった。
夢の中で何度助けを呼んだことだろう。
その度に誰も来ないのだと、何度絶望したことだろう。
思い出したくもない過去なのに、結局今の自分の生活は過去を切り離すことなど出来ない。
なぜなら自分は復讐を糧に生きているのだから。
僕は弱くない。
何かを犠牲にしてでも、踏み潰してでも立って歩くことが出来る。
立つ為の足を失ったとしても、引きずりながら進むほどの意地も持っている。
だが。
僕は決して強いわけではない。
あぁ…。
全て消えてしまえばいいのに。
人間も、世界も。
そうすれば恐れることも無くなるというのに。
そんなことは考えても無駄だと分かっている。
こんな考えも自分らしくないと分かっている。
けれど考えてしまうんだ。
「愚か、だな」
そう自嘲し、握り締める拳銃をそっと撫でる。
ひんやりと冷たいそれは心地よいが、安心出来るものではない。
だが今の自分を包み込む痛みを少しでも薄めてくれるのは、この冷たさだから…。
シエルは自分の身体とそれをギュッと抱きしめると。
「坊ちゃん、失礼します」
コンコンと扉をノックする音と、悪魔の声。
シエルはビクリと身体を震わせ、拳銃を扉へと向けて叫んだ。
「今日は誰も僕の部屋に入ってくるなと言った筈だ!」
「おやおや、随分と物騒なものを向けていますね」
シエルの言葉など無視して部屋へと入ってくるセバスチャン。
その手にはいつものように紅茶を乗せたワゴンがある。
シエルは拳銃を向けたまま睨みつけた。
「出て行け」
「汗も掻かれておいででしたので、新しいナイティに着替えましょうか」
「僕のことは放っておけ」
「…そうやって閉じこもって、独りでどうするおつもりですか?」
「なに?」
笑みを消し、瞳だけを赤く輝かせながらシエルを見つめてくる。
どこか怒りをも感じる威圧感に、シエルは拳銃を強く握り締めた。
けれどセバスチャンにとって拳銃など玩具のようなものだろう。
「一日中ひとりで部屋に籠って、何か解決すると?」
「黙れ」
「現実から目を逸らすのですか?」
「そうじゃない」
「じゃぁ何ですか」
セバスチャンは、そう問いただしておきながらも瞳を逸らし、紅茶の準備をし始める。
部屋に籠っていても何も解決しないのは分かっている。
けれど誰かに会える状態でもなかった。
ならば落ち着くまで静かにしていたかったんだ。
どうせまた歩むことを選ぶ自分だ。
この心の不安定さなんて、嵐のように過ぎ去ってしまうだろう。
だからそれまでは、この部屋に籠っていたかった。
「現実から目を逸らしているんじゃない。見つめているからこそ、落ち着きたかったんだ」
「お独りになったことで落ち着きましたか?」
「貴様が傍にいるよりも落ち着くだろう」
「酷いですね。何度も貴方を守ってあげた執事ですのに」
どこか悪戯にクスリと笑う声に、シエルは少しずつ拳銃を降ろしていく。
いつものような空間。
その感覚に、無意識に息を吐いていた。
そんな姿をこの悪魔は見逃してはいなかった。
「…この紅茶はタナカさんからです」
「田中?」
「はい。坊ちゃんに紅茶を入れて差し上げて欲しいと」
紅茶をカップに注ぐ美しい音色と香りが部屋を満たしていく。
朝は悲鳴がこの部屋を満たした時とは比べ物にならない程の温かい感触。
紅茶を注いだカップを差し出され、シエルは拳銃を隣に置き、受け取った。
覗き込めば、そこには自分の姿が映り込むのだが、どこか田中の顔が浮かんだ気がした。
厳しくも昔から傍にいた、あのじいやの姿が。
「あぁ…カーテンも開けていませんでしたね」
セバスチャンは窓の方に移動し、勢いよくカーテンを開けていく。
すでに太陽は少し高い位置へと昇り、眩しい光がシエルを照らした。
その先には青い空が広がっている。
「いつも仕事でお疲れでしょう。たまには遠い空を見上げてください」
「…え」
「メイリンからの伝言です」
クルリと振り返ったセバスチャンの顔は酷く優しかった。
「そういえば、バルドから何やら妙な報告が来ていますよ?」
「バルド?」
「はい。この間仕入れてもらったシェフの器具、大量生産してもいい代物だそうです」
「…そうか」
「だから安心して留守以外の時も任せてください、と」
「…!!」
「あぁ、それと」
セバスチャンは思い出したようにワゴンの場所へと戻り、ティーポットの後ろから何かを掴んだ仕草をする。
ティーポットの陰に隠れていたので、紅茶以外に何かあるとは思ってもいなかった。
そしてシエルに差し出したものは。
「花?」
妙にしおれ、花びらも数枚足りないような、でも美しい色をした花だった。
「フィニからです」
「…潰さずに摘めるようになったんだな」
そっとセバスチャンの手から花を受け取る。
その花が温かく感じたのは気のせいだろうか。
シエルが花を受け取ると、セバスチャンはシエルの前で膝を折り、頭を下げる。
まさに王にかしずくかのように。
しかし紡がれた言葉は、そんな姿とは似合わない言葉だった。
「…他の人間より少し賢い人間かと思いましたが、貴方も意外と馬鹿ですね」
「は?」
「独りで部屋に籠って、何か解決するとでも思いましたか」
「・・・」
「そんな拳銃で己の身を守ろうと?私はそんな玩具に負けたのですか」
セバスチャンは言う。
「確かに目を覚ました時は誰も傍にいない方が良かったかもしれません。ですが、拳銃なんかを握り締めるよりも私の名前を呼んでくださった方が絶対に良かったですよ」
なぜだか分かりますか?
「そんな玩具なんかよりも、私たちファントムハイヴ家の使用人の方が貴方を守ろうとする想いが大きいからです。痛みに震える貴方を包み込むことが出来るでしょう」
「…ッ!!」
「私たちを求めてください、マイロード」
セバスチャンは顔を上げる。
シエルの瞳に映ったセバスチャンの表情は、忠誠心を誓う騎士のようだ。
契約に縛られている悪魔に全く見えない。
シエルの心の中で、何かの雫が零れ落ちた。
「貴方の存在がどれほど私たちを支えているのか、知っていてください。決してお独りではないことを」
「セバスチャン…」
「貴方を貶めたのは愚かな人間でしょう。ですが、この世界にいるのは、そんな愚か者だけではありませんから」
私たちがおります。
セバスチャンは手袋を外し、素手でシエルの手に触れた。
あぁ…。
全て消えてしまえばいいのに。
人間も、世界も。
そうすれば恐れることも無くなるというのに。
その考えは消えることはきっとないだろう。
過去が消えないのと同じように。
けれど。
自分を想ってくれる存在も確かにいてくれるのだ。
貶める存在だけではなく、守ってくれる存在が。
傍にいていくれる存在が。
あの時は誰も助けてくれなかった。
そう、“あの時”は。
けれど今は違う。
僕のことを助けてくれる奴らがいる。
全てが悪いわけではないのかもしれない。
全て全部何もかもに絶望するのは、まだ早い。
こいつらがいてくれる限り僕は。
強くいられる。
「なぁ、セバスチャン」
「はい」
「その言葉は誰から貰ったんだ?」
「・・・」
「冗談だ」
「…一瞬本気で泣きたくなりましたよ」
「悪魔が泣く姿なんて見たくない」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「あぁ。もしかしたら初めて悪魔を泣かせた人間として歴史に残るかもな」
クスリと笑えば、セバスチャンも苦笑する。
もう大丈夫だ。落ち着いた。
きっとセバスチャンもそれを感じ取っただろう。
シエルは少しぬるくなってしまった紅茶を飲み干し、近くの小さなテーブルに載せた。
「…あいつらの所に顔を出す。少し心配させたみたいだからな」
「きっと喜びますよ」
どうだろうな、と少し頬を染めてそっぽを向けば、セバスチャンは立ち上がりシエルに向けて手を伸ばす。
「では行きましょうか、坊ちゃん」
「あぁ」
シエルは躊躇うことなく、自分を守る温かな手を取った。
END

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