その声はときに優しくて、吐き気を覚えた。
それなのにいつの間にか当たり前になって、
「―――――」
あぁ、だから嫌だったんだ。
こんな未来がいつか来ると分かっていたのに。
結局ぼくは、
罠に掛かった愚かな人間だ。
ぼく 遠く 縺れ
ら で 合う
パチャン、
「ん、」
触れる唇は優しくて柔らかく、けれど強引さがある。
抱きしめる腕はそんな柔らかい唇を裏切るかのように力強いし、逃がさないという悪魔らしい独占欲が顔を覗かせていて、お菓子のような甘さなど欠片もない。
「セバ、スチャぅん、はっ」
息が苦しい。
そう思うも彼は唇も腕も開放する様子はない。きっとこちらの息がもたないということを分かっているにも関わらず。
このまま唇や舌を噛み千切ってやろうかとも考えるが、たとえそうしたところで気にも留めないだろう。
血を流したまま構わず口付け続け、きっと自分の方が不快な気分になるに違いない。
「はっ、くる、し」
「っ・・・」
「うンッ」
一瞬の息継ぎの間に思いをようやく口にするが、またすぐに塞がれる。
口腔へ潜り込んだ舌は全てを彼の色に染めるかのように、その存在を刷り込むかのように動き、荒らしていく。
奥へと逃げた舌もあっという間に捕まってしまった。
「ん、んっ」
上顎、歯列、舌裏を擽られ、飲み込みきれない唾液が顎を濡らしていく。
抱きしめられているせいで、それを拭うことも出来ない。
(困った悪魔だ――――)
心の底からシエルはそう思うも、実際自分の表情がそこまで歪んでいないことには気が付いていた。
もし本当に嫌な表情を浮かべていたのなら、彼も口付けをやめているだろう。
本当に嫌がることを、彼はしないのだから。
彼が、セバスチャンがなぜ自分を解放しないのか。
その理由は察しがつく。
どうせ今日の仕事相手のことだろう。
何についてこんなに怒ったのか―――嫉妬したのかは分からないが、仕事相手が帰った後にいきなり抱きしめたかと思えば口付けてきたのだからこれは予想でも無ければ確信、いや確定だろう。
「はっ・・・」
「・・・坊ちゃん」
ついに酸欠でクラリと意識が歪み、力が抜けてしまうと、ようやく唇が開放された。
抱きしめられているおかげで倒れることはなかったが、腕が離れたらきっと座る姿勢すら保持できないだろう。
けれどそんな心配はよそに、セバスチャンは名前を呼びながら顔を首元に埋めるように強く抱きしめてくる。
少しくらい反省して欲しいところだが、そんな捨てられた狗みたいに抱きしめられたら文句の言葉も出てこない。
「セバ、・・・」
「坊ちゃん、・・・坊ちゃん」
セバスチャンはゆっくりと腰を落としながら膝を床につき、シエルは床に座った状態になる。
そうしている間も首元に埋めた顔は首に痕を残し、耳朶や顎にも唇を這わせていた。
まるでそうでもしていないと、その腕の中からシエルが消えてしまうかのように。
「なにを、焦ってるんだ、ばか」
言いながら彼の燕尾服を掴む。
僕はここにいるだろう、そう伝えるため。
「・・・すみません」
けれどセバスチャンはやめない。
それどころかこちらのタイまで取ってしまう始末だ。
彼にはすでに両手両足では足りないほど抱かれているが、だからといっていつ如何なる時でも抱かれていいというわけではない。
「セバス、チャン」
まだ少し震える手を伸ばして服を乱す手ではなく、彼の頭に触れる。
髪の隙間に指を差し入れ、整ったそれを掻き乱すかのように撫でた。
「セバスチャン」
他人から聞いたらいつもと変わらぬ声音だろう。
だがその声にいつも以上の甘みが含まれていることに、この悪魔はきっと気付いている筈だ。
もう一度、もう一度、何度も彼の名前を呼んで髪を撫でる。
そうしてようやくセバスチャンは身体の力を抜き、深くそして大きく息を吐いた。
「――――坊ちゃんが、」
ポツリと、その息にのせて紡ぐ言葉。
それにシエルは小さく「あぁ」と頷く。
「どこかに、行ってしまうと思いました」
「・・・・」
「いつだって貴方は孤独であろうとしますが、他の人間は貴方を放っておかない。いつだって貴方は無意識に人間を魅入らせる・・・勿論、悪魔も」
だから。
この契約から解放され、
この腕から逃げ出して、
どこか遠くへ行ってしまう。
私以外の、
存在と。
「けれど、貴方は私のものです」
誰にも渡さない。
ずっとずっと、貴方は私のもの。
「どこにも行かせません」
セバスチャンは言いながら顔を上げ、その赤い瞳を露わにさせた。
不安げに揺れているにも関わらず、何よりも強く残酷な輝きを放つソレ。
ゾクリと震えた背中の意味は、きっと“歓喜”だろう。
シエルはその赤い瞳に吸い込まれるように視線を合わせ、口角を吊り上げた。
「当たり前だ」
馬鹿だこの悪魔は。
本当に馬鹿だ。
「僕がお前以外の存在にこの身を捧げるとでも?」
そんなに安い存在だと見られているとは心外だな。
鼻で笑ってやれば、そういうわけではないと言うつもりの口が開いたが、その前に頭を撫でていた手・・・人差し指でその口を止めさせる。
「お前はそういうつもりで言ったんじゃないと分かっているが、その言葉はそういう意味が含まれているだろう?周りがどう思おうが僕には関係ない。僕自身がどうしたいか、それだけだ」
お前は僕の答えを知っていると思っていたが、違うか?
悪戯に微笑んで問いかければ、一瞬セバスチャンは瞠目し、けれどすぐに苦笑した。
そう、そういう顔。そういう顔の方が甘いのだ、彼は。
悪魔も執事も全て脱ぎ捨てたような、そんな表情だから。
「それにな、セバスチャン」
彼のその表情を見たシエルは今度は頬に触れ、そっと撫でた。
「その言葉は先に僕が――――」
――――ザザ、ジ、ドコカ、ニ――――
僕が先に、?
<貴様はどこかに行くだろう?>
<どこかとは、どこでしょうか>
<知らん>
――――ソレデモ、ジジ、ドコカニ、イクダロウ――――
この契約から解放され、
この腕から逃げ出して、
どこか遠くへ行ってしまう。
僕以外の、
存在へ。
ずっとずっと、
分かっていたことだ――――
「坊ちゃん?」
「ぁ、」
ふと気が付けば、困ったような慌てたような赤い瞳が視界に映り、そして自分の呼吸が妙に短く乱れていることに気がついた。
先ほど呼吸が落ち着いたばかりだというのに、どういうことだ。
セバスチャンも「どうしました?」と声を掛けてくるが、「大丈夫」だと笑ってみせる。
だって、そう答えることしか出来ない。
自分だって何がどうしたのか分からないのだから。
「先ほど何か言いかけておりましたが・・・」
「・・・いや、何でもない」
否、何だっただろうか。
いま 自分は 何を 考えていた?
――――ジ、ジジ――――
いや、もうそれはいい。
いま大切なのは、そんなどうでもいい言葉ではなくて、
目の前にいる存在だ。
「とにかく、だ。お前は馬鹿のことを考える暇があるなら仕事をしろ」
「・・・もう少し色気のある要求をしてくださると嬉しいのですが」
「そんなことを要求せずともお前はするだろうが」
呆れたように、けれど少し頬を染めながら言えば、相手は「そうですね」と笑った。
「すみませんでした坊ちゃん。貴方を疑うようなことを・・・」
「別に、気にしてない」
――――ジジ、ザ、ザザ、――――
「お前が馬鹿なのは今に始まったことじゃないからな」
「冷たいですね」
「どこがだ」
本当に冷たければ、あの苦しい口付けの後に撫でたりしない。
「ならば、貴方の想いを言葉でくださいませんか?」
「は?」
ポカンとした表情は赤い瞳を鏡に、自分でも見えていた。
かなり情けない顔だが、それを映す彼自身はいたって真剣だ。まぁ、口元が多少にやけているけれど。
(くそッ)
なんとなく。
本当になんとなくだが、ここはこの気持ちを言わなければいけない気がする。
いや、言わなかったら目の前にいる悪魔が怒るからとか、いじけるからとか、そういう理由じゃなくて。
いやそうじゃなくて。
純粋に、そうただ素直に言うと、
この気持ちを伝えたいだけ、
・・・かもしれない。
「こ、今回だけだからな」
「はい」
クスクスと笑う悪魔。
大層腹立たしい。
けれどなんだかくすぐったい。
シエルは大きく息を吸い、
お互いに望んでいる言葉を口にする。
「す」
――――ブツン――――
「なんなんだ、本当にッ」
目を開いた先には暗い天井。
温かく身体を包み込むのは白いシーツのみで、
その声を受け止める存在など、どこにもいない。
あれほど感じていた幸せが、
一気に冷やされる感覚、否、落とされる感覚。
目の前に愛しい存在、その時は愛しいと思っている存在がいて
その腕に抱きしめられて、口付け合って、
それなのに、気が付いたら独りぼっちで。
「もう、嫌だっ!!」
ゆめで良かったと思ってる。
それは嘘ではない。
あんなのが現実であってたまるか。
けれど、
痛い
胸が
幸せが空いた胸が
痛い
痛くて、たまらない。
でも、
<・・・記憶を整理するためとも、言われていますね>
その名を呼んでも無意味だということを、
なぜか嫌というほど己は
知っていた――――

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