遠くで耳鳴りがする。
揺さ振られているような錯覚と、頭を割るかのような頭痛。
きっとゆめを受け入れたくないと叫んでいるのだろう。
――――いや違う、現実を受け入れたくないのか。
いや、それも違う。
ゆめの方が現実だなんて信じたくないし、
けれどこの空っぽで痛む胸も感じたくない。
あぁ、そうか。
もうどちらも。
ゆめも現実も、
もう嫌なんだ――――
朝が
目覚めて
いく
「あまり顔色が宜しくありませんね」
「別に問題ない」
それよりも向こうに集中していろ。
薄暗い室内。
その壁に凭れかりながらその向こう側の廊下を見つめる。
その視線の先には1人の男が立っており、どうやら誰かを扉の前で待っているようだ――――いま自分たちはその待っている相手を待っているのだけれど。
探していた相手が今日この宿に来るという情報を掴んだのは今朝だ。
その宿は自分の屋敷から、そしてロンドンからも随分離れていて正直ド田舎に存在しているもので、暫く相手の詳細が掴めなかったのはこの為かと溜息を吐きたくなる。
ロンドンのような街から離れればすぐに自然が顔を出し、人が住む家も店も疎らになって人の存在さえもなくなるので、情報が極端に少なくなるのだ。
人がいなければ目撃情報もないし、店が無ければ買い物だってしない。
ようするに、身を隠すにはうってつけだということだ。
「だいぶ移動に距離がありましたからね。疲れたのではないですか?」
「問題ないと言ってるだろうが」
向こうに集中していろと言ったにも関わらず、後ろにいるセバスチャンはまだ尚言い寄ってくる。
鬱陶しいこと極まりない。
けれどそれは美学を大切にする執事としての心配と、悪魔としての嫌味が含まれているのだろう。
それは、
「ですが、もしもの時に何かあってからでは遅いのですよ」
彼の声音だけで分かることだ。
「・・・・」
「もし目的の人物(ターゲット)が現れたときに倒れでもしたらどうしますか」
「その時は貴様がいるだろう」
「私頼り、ですか?」
視線は向こうに向けたまま言えば、クスリと笑う声が耳を擽る。
小さく低いソレは一応相手にバレぬよう配慮されたものに違いない―――まぁ、どちらにしても不快には変わりないけれど。
シエルは黒い手袋をした手を握り締め、一瞬強く唇も噛み締めた。
「駒は上手く使うに限る」
「キングは高みの見物ですか。ですが倒れてはその見物も出来ませんね」
「もういい。分かったから黙れ」
己の視線は向こうへ注がれているが、悪魔の視線はこちらに注がれているのだろう。
痛いくらいの視線を全身に感じる。けれどシエルはあえて視線を逸らし続けた。
ターゲットを待っているから、そう言い訳して。
しかしそれを許してくれるような悪魔ではない。
「一応執事としてご主人様のことを心配しているのですが」
「迷惑だ。仕事の邪魔だ。執事なら察しろ」
「体調が宜しくないということを察した上で声を掛けたのです」
「・・・・」
「坊ちゃん、」
こちらを向いてください。
耳元で囁かれた言葉にピクリと肩が反応する。
「・・・・」
ハク、と口が開くが声は出ない。
鼓動が早いのは昨晩見たゆめのせいだ。
顔色が悪いのだって、あれから眠りにつけなかったから寝不足なだけで倒れることなんて有り得ないのに。
(きっと、あの声は聞こえていただろう)
嫌だと呟いてしまった声を、
泣き叫ぶように呟いてしまった声を。
けれどそれを彼は指摘しない。朝だっていつもと同じように笑みを張り付かせてカーテンを引いた。
だがそれの代わりにとでもいうかのように顔色の悪さを指摘する。
知っている筈だ、ただの寝不足なだけだと。
<坊ちゃん、・・・坊ちゃん>
ちがうっ!!
アイツとコイツは全く別の存在だ!!
あれが現実であってたまるか!!
シエルは何かが零れ落ちそうな目を数回瞬きして、そして再度握り締める手の平をギュゥと皮の音が鳴るくらい強く握り直し、ゆっくりと視線を動かす。
己の鼓動と長く吐く息の音が煩い。
この宿はこんなにも静かな場所だっただろうか。
「・・・・っ」
まるで全てスローモーション。
ゆっくりと動かした視線が捉えたのは赤い悪魔の瞳で、その瞬間相手の口角がゆっくりと吊り上がる。
長く吐いた息を吸い込む音と肺が空気で満ちる感覚、それと同時に彼の香りが胸を満たした。かと思えば、ゆっくりと吊り上がった口角を己の隻眼に映った瞬間、背中が恐ろしいくらいに冷えていく感覚が。
――――ザザ、――――
頭に響く雑音。
それと同時に遠くから響く扉が閉まる音。
もしかしたら目的の人物が来たのかもしれない。いや、ただ扉の前にいた男が部屋に入っただけかもしれない。どちらにしても早く確認しなくては。
けれど、いまはそれが出来ない。
彼の手がゆっくりこちらに伸ばされているから、いや、ゆっくりではない。いつもと同じ速さで動いている筈だ。けれどなぜか己の瞳には全てがスローモーションで――――
「坊ちゃん、」
言葉だけはいやに鮮明で。
強く打つ鼓動の音も鼓膜を震わせている。
「どうされました?」
口角を吊り上げた悪魔が伸ばした腕は己の握り締めた手の平を包み込み、ゆっくりとゆっくりと力を込めていく。
その動作なら振り払うことが可能だろう。けれどなぜかそれが出来ない。
(あぁ、ダメだ)
これでは同じだ。
“あの頃”と。
罠に掛かった頃と同じ。
先に試すようなことをしたのは、<コイツで>
それなのにそれは全て罠で、それに掛かったのは<自分>
知っていたさ
分かっていたさ
それでも、
少しくらい<信じて>みたかったんだ。
待て、
“あの頃”とはいつのことだ。
罠とは、
――――ザザ、ジ、それが、お前の答えか――――
なんのことだ?
「 は な せ 」
吐き出した息に乗せて出た言葉は鼓動と同じ強さで空気を打つ。
それは鉛球を打ち出した時と似てる気がする。
ただ酷く気持ちが悪い。
「あぁ、先ほどよりも顔色が悪い」
言いながらもう片方の腕がゆっくり伸びて彼自身の口で白い手袋を脱ぎ捨てていけば、だんだん見えていく契約印に残された己の瞳まで犯されていく。
その間も動くことが出来なくて、ようやく口にした言葉は空気を打ったが相手を貫くことは出来なかったようで架空のモノと化して消えていた。
「熱は無いと思いますが・・・」
契約印が露わになった手が額に触れる。
顔に近づいたソレに呼吸が止り、その瞬間沈黙が耳を打ち、鼓動を打ち抜かれる。
薄く開いていた唇を噛み締め、犯された瞳を細めるが逸らすことも出来ない。
ヒヤリと冷たい手の感覚も酷く気持ちが悪い。
あぁ、ダメだ。
このままじゃダメだ。
離せ、離せ、気持ちが悪い。
「ダメですよ、坊ちゃん」
なにが。
「そこは気持ちいいと思うところです」
なにを。
「それとも口付けが良かったですか?」
なんで。
「ねぇ坊ちゃん」
なんだ。
「貴方は気が付いていないかもしれませんが」
「これは、ゆめですよ?」
なに?
――――ブツン――――
ひとつの世界が終わって、
もうひとつの世界が
揺れて、
「だから言ったでしょう?倒れでもしたらどうしますかと」
「―――――っ?」
グワングワンと揺れる頭を押さえながら目を開けば呆れたような茶色い瞳が視界に映り、その向こうに木で作られ変色している天井がある。一体どういうことだ。
「倒れられたんですよ」
こちらの疑問を読んだセバスチャンは呆れた瞳と同じ呆れた声で言う。
「たお、れた」
「えぇ」
そのご様子だと倒れた瞬間は意識を失っていたようですね。
彼の言葉を聞きながらグルリと辺りを見回せば、先ほどまで立っていた場所より少し後ろに己の身体は倒れており、それを横抱きにするかのような状態でセバスチャンは床に膝を立てて支えている。
己の身体を支える手は白い手袋で包まれており、脱ぎ捨てた様子はない。
全然違う、
さっきとは。
「・・・・」
「どうしました、気持ちが悪いですか?」
「いや・・・大丈夫だ」
言いながら身体を起こし、先ほどは出来なかったその手を振り払う動作を簡単にやってのける。
それにセバスチャンも無言で従い、壁に寄り掛かるようにシエルの身体を少し動かしてから離れていった。
全然違う。
ゆめ、
あれは、ゆめ。
シエルはフッと息を吐いて自嘲的な笑みを浮かべ、そして黒い手袋をした片手で顔を覆った。
なんていうか、大きな声で笑ってしまいたい気分だ。
ずっとずっとゆめに振り回される己は何て滑稽だろう。
しかも気を失った一瞬の間に、あれだけのゆめを見るとは。
「本当に大丈夫ですか坊ちゃん」
「あぁ、問題ない」
顔を覆ったまま彼の言葉に頷く。
その声音は無機質で、そしてゆめと同じ執事と悪魔の意味が含まれた言葉。
こういうところは同じだ。
同じ、だ?
待て、最初彼は何と言った?
『だから言ったでしょう?倒れでもしたらどうしますかと』
<もし目的の人物(ターゲット)が現れたときに倒れでもしたらどうしますか>
待て、
「先ほど額に触れたときは熱が無いようでしたが、」
ちょっと待て、
「あまりご無理はなさらぬよう」
どこからどこまでが、
「いいですか、坊ちゃん」
ゆめだ――――?

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