静かに波紋が広がるような感覚。
ピチャンと水の音を立てているのにも関わらず、それに気が付いているのは自分だけで。
それでも結局はそのことに気が付かない振りをする。
ゆらゆらと水面は揺れて不安定さが滲み出ているのに、今の自分にはそれが酷く心地いい。
(久しぶりに、あの本が読みたいな)
最後の授業が終わり、シエルは家にあるお気に入りの本のことを考えながら鞄に教科書とノートを詰め込んでいく。
その動作に違和感はなく、むしろ“あの頃と同じ”速さだ。
まだ教室には沢山の生徒が残っており、他愛無い話しなどで盛り上がる声が響いている。
その声なども耳に入ることもなく、全てを詰め終わったシエルは鞄を肩に下げて教室から出て行った。
廊下にもまだ生徒が沢山いる。
パタンパタンと薄っぺらい安物の靴の音を響かせながらそれを通り過ぎ、玄関へと一直線。
すでに頭の中はお気に入りの本のことだけだ。
(早く帰ろう)
どこかからか自分に向けて声を掛けられたような気がしたけれど、シエルは振り返ることもせずに玄関口へと続く扉を開け、自分の靴が置いてある場所へと進んでいく。
そして若干砂がついている下駄箱を開けて外靴に手を伸ばせば。
「先ほどから呼んでいるのですが」
ポンと肩を叩かれる感触。
振り返らずともその声で相手が誰なのか分かってしまう。
「何の用ですか、ミカエリス先生」
眉を顰めることも、ましてやため息をつくこともせず、無表情よりも柔らかい。
けれど決して優しくは無い表情をした状態でシエルは振り返った。
まさに“優等生”の顔で。
その表情を見たセバスチャンは一瞬目を見開き驚いたような顔をしたが、次には不機嫌そうなオーラを放ち、しかしすぐに笑顔に変わった。
随分とコロコロと表情を変える奴だと内心でシエルは哂う。
「ちょっと相談室へ来ていただけますか?」
いつかの台詞をセバスチャンは吐いた。
「今からですか?見ての通り、僕はもう帰ろうとしていたのですが」
「あまりお時間は取らせませんので」
「何かありました?」
「・・・あったと言えば、ありましたね」
「そうですか、ですがそれはまた後日でもいいですか?ちょっと急いでいるので」
明日HRが終わった後、廊下の方でお聞きしますから。
シエルはニッコリと微笑み、今度こそ外靴を掴んで玄関へと置く。
そのまま流れるように上靴を脱いで外靴に履きかえれば、今度は肩ではなく腕を掴まれた。
グイと力強いそれだったが、もう振り返ることはしない。
「離してください」
「どうしたんですか」
「何がです」
「不機嫌、という感じではなさそうですが。何かあったんですか?」
「いいえ、特に何もありません」
シエルは答える。
「何か心配を掛けさせてしまったのなら申し訳ありません。ですが何もありませんので」
「この私にまで“優等生”を演じるとは気持ち悪いですね。・・・これは私を拒絶している、ということですか」
「そんなことありませんよ。ただ本当に急いでいるだけです」
もう離してくれと言うように掴まれた腕を引くが、離される気配はない。
だんだん焦れてきたシエルは舌打ちをしたくなるのを我慢し、無意識に唇を噛み締めた。
するとセバスチャンのクスリと笑った声が耳を擽る。後ろから自分の様子を知ることは出来ない筈だが。
一体彼は何に笑ったというのだ。
「やっぱり貴方は餓鬼ですね」
「・・・どういうことですか」
「本当に私を避けたいのでしたら優等生を演じる、いや、“元の姿”に戻ることなどせずに、最近の貴方を“演じて”私の前から去るべきでしたね。今の貴方はまるで私に何かありましたと伝えたいようだ」
「ッ・・・!!」
セバスチャンは言いながら掴んでいた腕を開放した。
が、シエルが走って逃げ出す前にその手をより伸ばし、シエルの制服のネクタイを引っ張り上げて無理やり自分の方へと引き寄せる。
いきなり絞まった喉に、少し見上げるような状態のまま小さく咳き込むが相手は気にした様子もなく、むしろ顔を近づけて。
「だから餓鬼だって言っているんですよ」
楽しそうに囁いた。
「ミカ、エリスせんせ、い」
「では、行きましょうか」
ネクタイを掴んだ状態のまま歩き出す。
シエルはまだ外靴のままなのに、それを履き替えることすら許されず、そのまま引かれるがまま進んでいく。
このままだったら絶対に良くない。
折角、せっかくまた心に蓋をしたというのに。
必死に自分に嘘をついていたというのに。
本当に嫌なら相手を殴ってでも拒否すればいい。
少し問題になろうが、自分に何か処罰を下そうとする勇気ある教師はこの学校にいないだろう。
けれど。
―――今の貴方はまるで私に何かありましたと伝えたいようだ
(くそ、くそ、くそッ!!!)
結局自分は何も出来ないまま、セバスチャンについて行くのだった。
あんなにも騒がしかった校内がいつの間にか静まり返っていて。
まるで神隠しにでもあったかのように、
二人の周りには誰一人いなかった。
end

PR