そもそも、どうして唇と唇が触れ合うことが特別なのだろうか。
手と手が触れ合うことは別段普通のこと。
視線と視線が交じり合うことだって。
なのに、どうして唇と唇が触れ合うことは“口付け”と名付けられ、特別視されるのだろう。
別になんとも思わなければ肩と肩が接触したことと、なんら変わりはないのではないか。
意識をしてしまうからいけないんだ。
何とも思わなければいい。
相手の人とぶつかったことをいちいち憶えているか?
答えは否だ。
だから。
セバスチャンに口付けられたことだって、忘れてしまえばいい。
― Spicyな口付け -
いつも筆を走らせる音が響いている執務室に、今は紅茶が注がれる音が響き渡っている。
仕事の休憩にと、セバスチャンが紅茶を持ってきたのだ。
朝からずっと仕事に没頭していたシエルはそれを素直に受け入れ、肩の力を抜きながら注がれる紅茶を見つめていた。
肩の力は抜いていると言っても、いつ何が起きてもいいように神経を張り巡らせている。
特にセバスチャンに対して。
「今日は出て行けと言わないのですね」
「お前が出て行ったら紅茶も出て行ってしまうだろう」
「おや、私を受け入れてくださったわけではないのですか?」
「そんなわけないだろう。受け入れたのは紅茶だけだ」
「それは残念」
どこまで本気か分からない声音で言いながら、シエルに紅茶を渡す。
フワリと甘い香りが鼻をくすぐり、苛立ちそうな言葉も簡単に耳を通り抜けていってしまう。
自分は案外現金な奴なのかもしれないなと、内心苦笑しながらそれを受け取り、口をつけた。
「いかがですか?」
「悪くない」
「それは宜しゅうございました」
ニッコリと微笑む執事。
その姿だけならば人間と間違えてしまうほど“それらしい”のに、この執事はシエルの前ならば簡単にその皮を剥いで悪魔の姿へと戻っていく。
それはシエルが悪魔だと知っているからなのか、それとも意地悪がしたいがために悪魔の姿になるのか。
「そういえば」
ふとセバスチャンは何かを思い出したように喋り出す。
「他の使用人たちから、屋敷に殺虫剤をまくようにと言われましたよ」
「そうか」
「坊ちゃん、虫に刺されたようですね」
「あぁ」
しれっと返しながら紅茶を飲み続けるシエル。
けれど先ほどよりも鼓動は早くなっていることは自分でも分かっている。
そして、また相手が何かしてくるであろうということも。
「うなじの辺りを刺されたと?」
「三人から聞いたのか」
「えぇ。赤くなっていることを言ったら、虫に刺されたと仰っていたと…」
「・・・」
「虫とは酷いですね、坊ちゃん」
セバスチャンは手に持っていたポットをワゴンに戻し、瞳を赤く輝かせた。
「あまり変わりないだろう」
「私は虫ですか?」
「叩き潰せるものなら良かったんだがな」
「では虫は虫らしく、美味しそうな獲物を再び刺しに行きましょうか?」
机に乗り出すように向こう側から顔を近づけてくるセバスチャン。
しかしシエルは冷静に紅茶を飲み続ける。
まるで相手にしていないかのように。
「遊びはまた今度だ。僕はこれから仕事の続きをする」
「少しくらいお相手してくださっても宜しいではないですか」
「執事が主人の仕事の邪魔をするな」
「では執事ではなく、貴方を愛する一人の悪魔としてなら?」
「残念ながら、そいつもまた後で…だ」
あくまで静かに受け流すシエルに、セバスチャンはフム、と腕を組む。
悪魔の彼は一体何を考えているのか。
たいそう不安を煽るものだが、シエルは紅茶を置いて万年筆を手に取る。
相手を無視して本格的に仕事を再開しようと思ったのだ。
だが。
「なるほど?」
それはクスリと笑う声に止められてしまう。
「…なんだ」
「坊ちゃん、私の顔を見てください」
「は?なぜだ」
いきなりの言葉にシエルは眉を顰める。
いや、ちがう。
今自分が一番触れて欲しくないことを気付かれたのかと、眉を顰めたのだ。
「あぁ、私の顔というよりも」
セバスチャンは微笑みながら指をさす。
自分の唇に向かって。
「私の唇をごらんください」
「ッ…!!」
バレたか!!
シエルは一瞬身を硬くするが、すぐに気を取り直してセバスチャンの瞳を見つめ返す。
ここで睨んではセバスチャンの行き着いた答えを肯定しているようなものだ。
けれど。
「頬が赤いですよ?坊ちゃん」
自然と染まってしまう頬を止めることは出来なかった。
もうここまで言われてしまったら誤魔化すことは出来ないだろう。
シエルは舌打ちをしながら、息を吐く。
結局自分は悪魔を欺くことは出来ないのだろうか。
いや、そんなことはない筈だ。
悪いのはきっと自分ではなく、今問題となっているのが“恋愛もの”だから悪いのだろう。
そのテのものは、絶対に自分の方が不慣れだ。
どのようにカードを切り返したらいいのかが分からない。
たとえその感情が偽物だったとしても、だ。
どちらにしろ、これ以上悪魔の好き勝手にさせたくなくない。
「それについても後だ」
「後とはいつですか?」
「後は後だ」
「先延ばしにするとは、坊ちゃんらしくありませんね」
手を伸ばして、シエルが持つ万年筆を奪ってしまう。
これでは仕事を再開させることも出来ない。
別段急ぎの仕事はないが、こうも一定の確率で仕事の邪魔をされると苛立ちも募り、沸点が低くなってしまうものだろう。
冷静に受け流してしまおうという思いは、すでに灰となり、どこかへ消え去ってしまっている。
「先延ばしにしないのは仕事等のことであって、貴様のことはいくらでも先延ばしにする」
「私から逃げるのですか」
「は?そんなわけないだろう」
「先延ばしにするのは、逃げることと変わりないと思いますが」
「…もういい加減にしろ、貴様ッ!」
シエルは怒りのままに机をドンッと叩きつける。
「僕で遊ぶのもいい加減にしろ。そんなに人間に構って欲しいなら他を当たれ!貴様の暇つぶしなんぞに裂いてやる時間なんてないんだッ!」
イライラする。イライラする。イライラする!
どうして僕がコイツに振り回されなければいけないんだ。
契約者であり、主人であるのは僕の筈なのに。
そもそもどうしてこんなことになっているんだ。
始まりはセバスチャンの告白か?
あれ以来、セバスチャンはしつこいくらい僕に突っかかるようになった。
なんだ、僕が気に食わないことでもしたのか?
だから僕を困らせて楽しんでいるのか?
もうワケが分からない。
もういい加減にして欲しい。
もう僕で遊ぶのは、止めて欲しい。
「遊んでなんかいませんよ」
セバスチャンはシエルとは逆に静かに言う。
「あ?」
「言ったでしょう?本気だと」
「・・・」
「私は貴方が本気で好きです。愛しています」
「・・・」
「信じてくださったのかと思っていましたが?」
「そう簡単に、貴様の言葉が信じられるかッ」
吐き捨てるように言えば、セバスチャンは静かに机を回り、シエルの座る所までやって来る。
警戒したシエルは立ち上がりセバスチャンから一歩下がるが、セバスチャンは追いかけては来なかった。
互いに手を伸ばせば、その手が届くか届かないか位の距離を保ったまま、二人は向かい合う。
「私は貴方を愛しています」
「・・・」
「それだけは信じてください」
「・・・」
「先日、餌である人間を愛するなんて悪魔としての性質が欠落したんじゃないのか…と仰いましたね」
セバスチャンに口付けされた日の言葉を持ち出してくる。
シエルは睨んだまま頷いた。
「私も色々悩みましたよ」
「え?」
「私が人間を“愛する”ということを素直に受け止めたと思いますか?」
苦笑するセバスチャンにシエルは目を見開く。
そう言われれば…。
セバスチャンは、いつも悪魔よりも弱い人間を卑下していた。
もちろん主人である筈の、シエルのことだって。
だからシエルは愛していると言われても信じることが出来なかったのだ。
だが、もしそれが本気なら。
一番信じたくないのはセバスチャン自身ではないのだろうか。
「本当に有り得ませんよ。どうして私が人間ごときの貴方を愛さないといけないのですか」
「…随分な言葉だな」
「私自身も信じたくはなかったものでして」
ですが。
スッとシエルに向かって手を差し出す。
「止められなかったんですよ、この想いを。貴方に向かう溢れる想い。どうすることも出来なかった。だから認めることにしたんです。貴方を愛してしまっているのだと、ね」
「セバスチャン…」
「嫌がっても構いません。ですが、この想いは信じてください。それだけは疑わないで…」
どこか自嘲気味に笑うセバスチャンに、シエルの怒りは急激に冷めていく。
もしかしたら、愛を疑うたびに。そして受け流すたびに、傷ついていたのかもしれない。
もっと表情の動きまで観察しているべきだっただろうか。
「…分かった」
自分が悪かったとは思わないが、少し反省することはあるかもしれない。
ほんの少しの謝罪を込めて頷き、差し出された手に自分の手を乗せれば。
「あぁ、言い忘れていたことがありました」
「えッ?」
ぐいっと引っ張られ、そのままセバスチャンに抱きしめられてしまう。
シエルは状況が追いつけず抵抗することもないまま、まばたきを繰り返す。
「セ.セバスチャン?」
「貴方を愛していると認めたら、随分と気が楽になりましてね」
先ほどとは打って変わったように、明るい声音で喋り出すセバスチャン。
「尚更、貴方に向かう想いを止めることが出来なくなってしまい、ここは素直になった方が自分の身の為だと考えることにしたのです」
「は?」
「ですから、貴方がたとえ嫌がったとしても、もう止めることは出来ません」
「は!?」
「ですがご安心ください。すぐに坊ちゃんも私のことを愛するようになりますよ」
「ふ、ふざけるなぁぁぁぁ!!」
ようやくどういうことなのか理解したシエルはジタバタと暴れ出す。
結局のところ。
上手く自分の手を取るように誘導されたのだ。
セバスチャンの想いを信じさせることは、きっとコレのついでだったに違いない。
なぜなら。
この悪魔の気持ちを僕が信じようが信じまいが、本気で僕のことを愛しているのならば、気にせずに求めてくるに決まっているだろう!!
少しでも心を揺すられた自分が馬鹿だった!
悪魔が欲望に忠実なのは、自分が一番よく知っている筈なのに!
それでも、別に遊ばれているわけではないと分かっただけでも、良かったのだろうか。
いや、良くないだろう!何を考えているんだ僕は!
どこか潤ってしまう心を叱咤し、シエルはセバスチャンの肩を叩く。
「離せッ!僕は仕事をするんだ!」
「先日も思いましたが、坊ちゃんは抱き心地いいですね」
「な、何ふざけたことを言っているんだ!」
「唇も柔らかくて気持ちいですし」
「なぁ?!」
シエルは一気に頬を赤くする。
そしてタイミング悪く、少しだけ抱きしめられる力が緩められ身体を離されてしまう。
真っ赤になったシエルを見て、セバスチャンは嬉しそうに微笑んだ。
「どうやら坊ちゃんも、口付けのことを忘れられないみたいですね?」
「ち、ちがう!」
「ずっと意識してらっしゃいましたし」
バレバレですよ?
そこまで言われてしまい、シエルは唇を噛み締める。
口付けを気にしているだなんてバレたくなかったのだ。
うなじの辺りに残された跡よりも、形の残っていない口付けの方を意識してしまうだなんて。
口付けられた時の感触だって覚えていないのに。
口付けられた時のセバスチャンの顔だって覚えてないのに。
それなのに。
口付けられたという真実だけが、シエルの心を締め付けてくる。
悪魔が使った言葉を借りると“有り得ない”ことなのだ。
たかが口付けに、ここまで自分が動揺してしまう自分の存在が。
「どうせ私の唇の感触は憶えていないでしょう?」
「憶えてるわけがないだろうがッ!」
「では、憶えられるまで口付けましょうか」
クイっと顎を救い上げられ、上を向かされる。
その視線の先には、見覚えのあるセバスチャンとの顔の近さ。
先ほどは机を叩くほど怒っていたのにも関わらず、今は煩いほど高鳴る鼓動と、セバスチャンの唇にしか意識ができない。
これも、セバスチャンの気持ちを認めたからか?
遊びではないということを知ったから、怒りではなく、ましてや不安などもなく、妙な緊張感に包まれてしまうのだろうか。
グルグルと考えるが、今の状況で正しい答えが導かれるワケがない。
ただ、今分かることは。
「坊ちゃん…」
セバスチャンとの口付けを忘れることは出来ないということだ。
「…ッ」
唇と唇が重なり合う。
今度はすぐに、自分の唇に触れているのはセバスチャンだと判断できた。
といっても、冷静であるわけではない。
もうどうしていいのか分からず、いっぱいいっぱいだ。
拒絶するという選択肢さえも生まれてこない。
けれど、ただ1つ。
瞳だけは閉じない、ということだけは、頭の隅にあった。
瞳を閉じたら負けなような気がしたからだ。
シエルは必死に瞳を開け、セバスチャンを睨みつける。
近すぎて視界が少々ぼやけるが、相手の赤い瞳に自分の青い瞳が見えた。
もしかすると、自分の青い瞳にも赤い瞳が映っているのかもしれない。
「…はぁ」
「大丈夫ですか?」
しばらくした後、ゆっくりと唇が離れていった。
ずっと顔を上げていた状態だったシエルは下を向きながら息を吐き出せば、クスリと笑う声が耳に聞こえてくる。
「まさかずっと瞳を開けているとは思いませんでしたよ」
「僕の勝手だろう」
「まったく。本当に負けず嫌いですね」
どうやら、またこちらの意志は筒抜けだったようで、シエルはうっ、と詰まってしまう。
「それで、きっちりと憶えましたか?」
「あ?」
「私の唇の感触ですよ」
「!!」
ハッとしたシエルは唇を押さえながら、セバスチャンから距離を取ろうとするが、もう片方の手で腰を掴まれている為逃げることは出来ない。
僕は、なにを普通に口付けを受け入れているんだ!!
ここでやっと拒絶するという選択肢が生まれたシエル。
しかしその選択肢がやっと生まれたからといって、それが実現可能かといわれると、また別の話しなわけで。
「ほら、ちゃんと憶えて…」
「や、待て、セバスチャんん!」
再び上を向かされ口付けられる。
しかし今度は触れ合わせるだけではなく、まるで自分の唇の感触を憶え込ませるかのように、擦り合せてくる。
「…憶えました?」
「…ッ…はぁ、知るかッ!」
「おや、物覚えの悪い方ですね」
「うわッ?!」
ヒョイっと身体を持ち上げられ、見上げていた筈のセバスチャンの顔が、同じくらいの位置になった。
何をするんだと怒鳴れば、首がお辛そうなので、と簡単に返されてしまう。
それは、まだ口付けを続けるのだと遠まわしに伝えている。
「ほら、私の首に捕まってください」
「どうして僕がお前の首に捕まらないといけないんだ!」
「落ちますよ?」
「ちょッ!本気か?!落とすな!」
身体が落ちそうな感覚に、反射的にセバスチャンの首に手を回してしまう。
それが狙いだと分かっていても、防衛本能には逆らえない。
「よくできました」
「んん!」
チュッと音を立てながら口付けられる。
しかし今度はすぐに離れていった。
下唇だけが…。
「私の唇は柔らかいですか?」
上唇は触れ合わせたまま、しかしたまに下唇も接触しながらセバスチャンは囁き掛ける。
シエルはもう我慢できず、ついに瞳を閉じてしまう。
「温かい?それとも冷たい?」
「知らんッ!」
「坊ちゃんの唇は温かいですよ」
「恥ずかしいこと言うなッ!」
耳を擽る言葉に、シエルはセバスチャンを掴む手に自然と力が入る。
「ほら、しっかり憶えて」
「…ッ!」
「そして」
かんじて…。
まるで耳に直接注ぎ込まれたように、ゾクリと背筋が震え上がる。
そして気が付けば、再びセバスチャンの口付けを受け入れていた。
嫌なのに。
嫌なはずなのに。
身体も、頭も、言うことをきかない。
まるでアヘンのように身体に染み渡り、おかしくさせる。
酷く、夢中にさせる。
『私の唇は柔らかいですか?』
―――あぁ、柔らかい。
『温かい?それとも冷たい?』
―――少し冷たい。
『私の唇の感触を憶えましたか?』
―――憶えた。
嫌と言うほど憶えた。
そして。
誰かを愛することが出来ない僕が、悪魔の愛を感じた。
その瞬間同時になぜか。
この悪魔から、逃げることは不可能だということを悟った。
「…お勉強の続きは?」
唇を離し、まだ足りないというように額に口付ける悪魔に僕は。
「もう勘弁しろ」
力なくクタリと寄りかかったのだった。
END

PR