助けを求めて伸ばす手なんて、自ら切り落とした。
苦痛を表す涙なんて、とうに枯れ果てた。
後は己の憎しみという刃を突き立て、最期の時を静かに待つだけ。
ただ、それだけの筈だったのに。
どうして。
どうして僕は、こんな感情を抱いているのだろう。
― The last self‐control -
月が空高く昇る真夜中。
静寂に包まれた世界は、昼間とは違い、妙に心地いい世界へと変わっていく。
そう感じるのは、自らの存在を隠してくれるからなのだろうか。
誰にも見られることのない安堵感。しかしそれは、己の中にある闇が頭を擡げる。
「坊ちゃん」
黒い執事は、熱を含んだ声で主の名を呼ぶ。
昼間には見せない悪魔の姿を、隠すことなく露わにし、手を伸ばす。
その動作は滑らかで静かなものなのに、どこか狂気を孕んでいる。
そんな姿を見ていると、妙に安心する自分はやはりどこかおかしいのだろう。
「今日もどこか不機嫌のようですね?」
そう言いながらも、さも気にする様子もなく主であるシエルの頬を撫で上げる。
すでに白い手袋は外され、黒い爪と自分の右目と同じものが手の甲に描かれているのが見える。
狂気が感じられるのに、優しい動作で頬を撫でるセバスチャン。
その差がなぜかイライラする。
「どうして不機嫌なのかお前は知っているか?」
「いえ・・・。お伺いしても?」
そのまま唇を寄せてくるセバスチャンをシエルは無表情のまま見つめる。
不機嫌な理由を聞くのは執事の務めか、という疑問を抱くが口にはしない。
どうせそう聞いたって、美学だと答えるだろうから。
しかしその答えをあえて言わせたいという思いもある。
なぜなら。
「あぁ、坊ちゃん。そのような瞳も美しいですよ」
悪魔の口から吐き出される甘ったるい言葉に吐き気がするから。
不機嫌な理由は言わないと分かっていたのか、そのままセバスチャンは唇を重ね合わせる。
痛いほどの熱に流されないよう、どこか冷めた思いで口付けを受ける。けれど、それに答えはしない。
相手からの一方的な口付け。それは相手からの一方的な愛情表現のようにも見えるが、そんなことはない。
これは愛の交わりでは決してないのだから。
この行為は、悪魔の空腹を紛らわすための遊び。ただの暇つぶし。
そこに愛もなければ何も無い。あるのはただの偽りだけ。
「今日は本当にご機嫌な斜めですね」
一向に口付けに答えて貰えないことに、セバスチャンは呆れたようにため息をつく。
「こうも答えて貰えないと、少し切なさを感じますよ」
「なら、今日はこれで終りだな」
「おや、気が乗らずに不機嫌だったのですか?」
「だと言ったら?」
試すように聞くと、セバスチャンの口元が厭らしくつり上がる。
「どうもしませんよ。たとえ貴方が不機嫌でも私は構いませんので」
そのままセバスチャンは執事の顔でニッコリと綺麗に微笑んでシエルのナイティのボタンを外し始める。
執事の顔をしながら微笑んでも、その言葉は執事としてどうなんだ。
結局のところ、どう転んでも僕は悪魔に食べられるらしい。
このような行為をするようになったのは、随分前からだ。
きっかけは、セバスチャンの気まぐれ。
僕は別にそれを拒絶することなく受け入れた。
ただ単純に。簡潔に。
三年前のあの時のように抵抗感は無かった。
三年前のあの時のように嫌悪感は無かった。
けれど。
三年前には無かった甘ったるさが僕を蝕んだ。
僕はそれに対して吐き気がした。
僕が無くした筈のモノが、僕を包み込むような錯覚に陥られる。
偽りのモノに騙されてしまいそうになる。
この悪魔に愛なんてない。
この僕にだって。
けれど、錯覚してしまいそうになる。
僕は、こんなモノ欲しくはなかった。
「坊ちゃん・・・」
いつの間にか自分の思考の渦に堕ちていたのを、セバスチャンの声で掬い上げられる。
気が付けば、ナイティのボタンは上半分を外され、上半身が剥き出しの状態になっていた。
セバスチャンもいつの間にかネクタイを解き、首周りを緩めた状態になっている。
カーテンの隙間から差し込まれる月明かりで、セバスチャンの肌がいつもよりも白く見える。
しかし儚げに見えることはなく、不気味さを感じさせるのは悪魔だからだろうか。
シエルはそっと手を伸ばし、先ほどセバスチャンが頬に触れたのと同じように頬に触れる。
優しく、優しく。
もう片方の手も伸ばし、両手で包み込むとセバスチャンがフワリと微笑んでくる。
そんな表情に、一瞬口付けをしたい衝動に駆られたが、それを無視してシエルのは両手を下へと下げていく。
そして行き着く先は、セバスチャンの首。
「・・・」
シエルはそのまま両手でセバスチャンの首を絞める。
無表情のまま。何も流さず、何も発さず。ただ静かに首を絞める。
セバスチャンは苦しげな表情も一切見せず、微笑んだままシエルを見つめ返している。
「貴方は、私を殺したいのですか?」
少し掠れた声でシエルに問いかける。
シエルは少しだけ身体を強張らせたが、すぐに弛緩し首を横に振る。
「別に。殺してもお前は死なないだろう」
シエルは首を絞めた状態のまま答える。
その声には何の感情もこもってないが、額には汗の粒が浮き出ている。
セバスチャンは手を伸ばし、それを優しく拭ってやる。
それが妙に癪に障り、先ほどよりも強く絞める。
「首を絞められているのに、よくもそんなことが出来るな」
余裕だと言いたいのか?
鼻で哂うと、セバスチャンは汗を拭っていた手で、そのままシエルの髪をかきあげながら答える。
「だって坊ちゃん、本当はこんなことしたくはないのでしょう?」
「何を根拠に言っているんだ」
「貴方はそんなに強くないですから」
「なに?」
セバスチャンの言葉にピクリと眉を上げる。
「貴方は誰かを自分の手で殺せるほど、強くはないのですよ」
「それは僕を馬鹿にしているのか」
「いいえ、全く。ある意味それが貴方の魂を輝かせている一部なのですから」
掠れているのに、どこか熟れた果実のような声。
ドロリとした闇に乗せて紡ぐ言葉は、シエルの耳を犯していく。
「貴方は強くない。けれど弱くもありません。だから、このようなことをなさっているのでしょう?」
「・・・」
「私が恐いのですか?」
いえ、違いますね。
「愛が、恐いのですね?」
セバスチャンは首を絞めているシエルの背中に手を回し、自分の方に引き寄せて軽く口付けをする。
まるでそれは神聖なる儀式のように穏やかだ。
本当に憎たらしい悪魔だな。
「お前の中に愛があるというのか?」
「もちろん。心から貴方を愛していますよ」
「ふん、反吐が出るな」
「だから、首をお絞めになられているのでしょう?」
悪魔は言う。
「貴方は私の中にある愛に気が付いた。それは貴方を弱くさせるものだ。甘えてたくて流されそうになるのでしょう?憎しみを糧として生きようとする貴方の障害になるのでしょう?」
「うるさい」
「そのまま私に溺れてみてはいかがです?悪魔の愛に縛られたらいいじゃないですか」
「黙れセバスチャン」
「二人で腐った林檎のように甘く果てた時間を過ごそうではありませんか」
「黙れっ!!!」
シエルは首を絞めていた手を離し、大きく振り上げる。
そしてセバスチャンの頬にめがけて振り下ろすが、渇いた音を立てる前に手首を持たれ止められる。
舌打ちをしながらもう片方の手も振り上げるが、同様に止められてしまう。
両手を拘束させられた形になり、シエルは思い切りセバスチャンを睨みつける。
「腐った林檎のように甘く果てた時間だと?笑わせるな。そんなもの、ただの蛆が湧く時間に過ぎない。僕はそんな無意味な時間など欲しくないな」
「素敵な提案だと思ったのですが」
「そんな時間、独りで勝手に過ごしてろ。僕は前へ進む」
「それでこそマイロード。孤独に輝く美しき魂です」
「そう思うならば、馬鹿げたことを言い始めるな」
「馬鹿げたこと、ね」
両手を掴んだまま、セバスチャンはシエルを押し倒す。
気が付いたときにはすでに首元に顔が寄せられ、チリリとした熱い痛みに襲われる。
きっとその場には、契約印のように跡が付けられているだろう。
いきなりの出来事にシエルは反射的に抵抗すると、セバスチャンは顔を少し上げ、赤い瞳でシエルの瞳を覗き込む。
その瞳は、まさに情欲を孕んだ獣の色。最初の狂気の方がまだ可愛げがあった。
「何度も言うように、私は貴方を愛しています。心の底から。だから私は貴方の言う馬鹿げたことを望みますよ」
「っ!」
「貴方は認めたくないらしいですけどね。私の中の愛の存在を」
セバスチャンはニヤリと哂う。
二人で行われるものは愛の交わりでは決してない。
行為は、悪魔の空腹を紛らわすための遊び。ただの暇つぶし。
そこに愛もなければ何も無い。あるのはただの偽りだけ。
この悪魔に愛なんてない。
この僕にだって。
愛があるだなんて、錯覚してはいけないのだ。
たとえ真実だとしても、愛があるだなんて認めてはいけないのだ。
きっと認めたら、ドロドロに溶かされてしまう。
全てを放り出して、それに縋りついてしまう。
だって、それぐらいコイツが恋しい。
だって、それぐらいコイツが愛しい。
僕はそれぐらい、この悪魔を愛してしまったから。
決して開けてはいけない心の蓋。
頑丈に閉めて、奥深くに沈めておかなければ。
なのに。
コイツが愛を囁くから。
甘ったるい言葉を投げかけるから。
だから首を絞めた。
僕自身を守るために。
― 貴方は私の中にある愛に気が付いた ― あぁ、気が付くなという方が難しい。
― それは貴方を弱くさせるものだ ― あぁ、僕を酷く弱くさせる。
― 甘えてたくて流されそうになるのでしょう? ― あぁ、永遠にその腕の中にいたくなる。
― 憎しみを糧として生きようとする貴方の障害になるのでしょう? ―
そうだ。それは僕にとって最高に邪魔なものだ。
お前の言う通りだ。
お前は僕の思っていることを正確に全て読み取っている。
それなのに、否、だからこそ。
「私は貴方に甘い言葉を囁き続けますよ」
コイツは僕を引きずり落とそうとしている。
「私以外その瞳に映さなくなるまで、永遠に。貴方は私のモノですから」
「・・・最悪なものに捕まったな、僕は」
「今更でしょう。いつまでその自制が続くのか見ものですね」
さぁ、試練の始まりですよ?坊ちゃん。
その言葉を合図に荒々しく口付けられ、厭らしく舌や指が蠢いていく。
文句を紡ぐ口からは甘い吐息が漏れはじめ、思考が真っ白になっていく。
余計な考えは無用。貴方は私の愛だけを感じていればいい。
そんな悪魔の囁きに酔わされながら、熱い熱に溶かされていく体。
痛いほどの快感に、枯れたはずの涙が流れていく。
焦らされれば、自ら切り落とした筈の手が簡単に伸びそうになってしまう。
あぁ、なんと愚かなものだろう。
本当は、このまま愚かになってしまいたい。
このまま愛する腕の中で永遠を過ごせたら、どんなに幸せだろう。
三年前の出来事を忘れることは出来ないけれど、コイツがいるならば・・・。
けれど。
なぁ、セバスチャン。
僕もお前を愛している。
心の底から愛している。
だから。
お前の望む魂のままで、いたいんだ。
END
******
あとがき
セバスの首を絞めている坊ちゃんを書きたくて書きました(笑)

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