手を伸ばしたら捕まえられるような気がした。
それはとても美しい黒猫で。
僕はそれを視界に映した瞬間に追いかけた。
逃げる逃げる黒猫。
まるで捕まるわけがないだろうと嘲笑うかのように、身軽に飛び跳ね高い塀さえも越えていく。
追いかける追いかける僕。
これは夢だと分かっていた。
僕と黒猫の追いかけっこ。
今この世界に他の住人なんていなくて、僕と黒猫だけの世界だ。
滑稽だと笑ったのは、きっと夢を見ている僕自身だろう。
逃げる逃げる黒猫。
どこまでも終わらない世界を知り尽くしているかのように、迷うことなく足を進めていく。
止まる止まる僕。
夢の中だからか息も切れない。アレルギーも出ない。
だけど僕は止まった。
黒猫は止まらない。
後ろ姿はだんだんと小さくなり、そのまま消えてしまいそうだ。
「セバスチャン」
黒猫の背に向けて名前を呼ぶ。
セバスチャン?
セバスチャン?
あの黒猫はセバスチャンという名前なのか。
首を傾げた状態のまま納得して、独り頷く。
そしてもう一度名前を呼べば。
「にゃー」
逃げていた黒猫が此方を振り返り、喜ぶように鳴く。
やっと呼びましたね、そんなふうに聞こえたのはきっと夢を見ている僕自身がセバスチャンを知っているからだろう。
僕は膝を折って屈み、黒猫に向かって手を伸ばせば再び前を向いて走り去ってしまう。
長い長い尻尾を振って、見せ付けるように。
そんな姿に苦笑しながら立ち上がれば、フワリと背中に柔らかい感触。
そして眼帯をしていない両目を塞ぐ、白い手が現れた。
「坊ちゃん」
視界が無い中で、声が大きく響く。
僕は抵抗することもなく、後ろの奴の言葉に耳を傾けた。
もう頭の中には、あの黒猫の存在なんかどこにもなくて。
ただただ後ろの奴に意識を向けた。
「早く目を覚ましてください」
「お前は誰だ?」
「おや酷いですね。先ほど名前を呼んだというのに」
クスリと笑う息が耳を擽る。
先ほど名前を呼んだ?
じゃぁお前が本当のセバスチャンなのか?
僕はまた首を傾げて考える。納得はしていないから頷かない。
「貴方の夢の中ではあの黒猫がセバスチャンなのかもしれませんが、そんなこと許しませんよ」
「なぜ許さないんだ?」
「貴方のセバスチャンは私だけで十分です」
「ということはお前はセバスチャンなんだな?」
「さぁ。それは貴方自身が私の姿を見て確かめてみてください」
そっと目の上から手が去っていく。
それと共に僕と黒猫・・・いや、僕の後ろの奴だけの世界は音を立てることもなく崩れ、終焉を迎えた。
僕は目を覚ましたのだ。
「お目覚めですか、坊ちゃん」
少しずつ瞼を上げていく。
先ほどまで白い手に隠されていた視界は久方の光に弱く、とても眩しい。
いや、それは夢の話しだったかと内心で夢を見ていた僕自身は苦笑した。
眩しさの先には赤い瞳の黒猫の姿。
赤い瞳の黒い男の姿。
執事の皮を被った悪魔。
そして夢の中でも僕が追いかけた存在。
手を伸ばしたら捕まえられるような気がした?
ちがう。
もう僕がこの腕に捕らわれているんだろう?
「セバスチャン」
その姿を視界に映しながら名前を呼べば。
「やっと呼びましたね」
黒猫と同じように、にゃーと鳴いた。
End

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