暗い部屋の中。
朝とは違い静寂を身に纏い、月が空を制している。
時折、フクロウのような声が聞こえるが本当かどうかは分からない。
もしかしたら死神が駆り損ねた魂が世界を彷徨って鳴いているだけということも、この世界では有り得るのだから。
「何をお考えですか?坊ちゃん」
その暗闇の中に、より深い闇を纏いし者がシエルにシーツを掛けていく。
そこには闇と同じくらい深い愛情が含まれていて、なんだかアンバランスだとベッドに横になりながらシエルは内心苦笑した。
「いや、明日はこれで少し楽が出来るかと思ってな」
「そうですね。こんな時間まで私の言うことを無視して仕事をなさっていたのですから」
「・・・・」
咄嗟に言った言葉はどうやら失敗だったらしい。
先ほどまでシエルは明日の仕事に手をつけていたのだ。
眠気が来ないから、と適当なことをいい訳にして。
セバスチャンは身体が冷えてしまうと怒り早くベッドに入るようシエルに言い続けたが、シエルはそれを無視して仕事を続けていた。
そして月が高い位置に見えた頃、やっとこのセバスチャンの言われた通りにベッドに入ったのだ。
「これで明日眠たいと文句を言っても知りませんからね」
「これくらいの時間だったら別に平気だ」
「いつもそう言って目覚めが悪いじゃないですか」
私の身にもなって欲しいものです、とため息をつくセバスチャンにシエルは眉を顰めた。
言われていることは真実かもしれないが、それを素直に謝れるほど心清らかじゃないし、プライドも高い。
ここでいつもなら文句1つ言いたいところだが、目覚めが悪いことよりも身体を冷やしたらと心配している方がセバスチャンの本音だと気が付いているので、不機嫌な顔に染めるだけに留めた。
「ほら、こんなにも冷えてしまわれているじゃないですか」
スッ、と頬を撫でていく感触。
しかしそれは手袋越しで、むしろお前の方が冷たいんじゃないかと言いたくなる。
「手袋越しで体温が分かるとは思えないが」
「・・・・そうですね」
こちらがどういう意味で言ったのか理解したセバスチャンはクスクスと笑いながら手袋を脱ぎ捨てた。
そして再びシエルの頬を優しく撫でていく。
いつもは冷たい感触のソレが今日は同じくらいの温かさに感じるのだから、セバスチャンの言う通り冷えてしまっているのだろう。
「温かいミルクでもお持ちしましょうか」
「いや、いらない」
けれどシエル自身は冷たいとも寒いとも感じていない。
首を横に振ろうと思ったが、急に浮かんだ案にそれをピタリと止める。
それが表情に出たのだろう。セバスチャンはどうしたのかと視線で訴えてきた。
「ん・・・別に」
「坊ちゃん?」
自分の中で生まれた案は酷く恥ずかしいもので、枕に頭を押し付けるようにして顔を隠す。
ここで素直に甘えられたら苦労しないだろうなと考えつつも、そうしたら僕じゃないと笑う自分もいた。
「どうしました?」
「なんでもない」
優しく声を掛けられるが、今度こそ首を横に振る。
しかし無意識にシエルの手は頬に添えられたセバスチャンの手と重ねているのだから、セバスチャンとしては素直ではない口に苦笑するしかないだろう。
少しでも素直にならないかと親指で頬を撫でれば目元が赤く染まっていく。
温かくなってきたのか、それとも別の感情からか。
どちらでも構わないと思う自分は、きっとこの人間に酷く溺れているのだろう。
「坊ちゃん」
囁くように名前を呼ぶ。
もう月があんなに高いのだ。
長く遊んでいては本当に明日シエルの身体が辛くなってしまう。
もう一度頬を撫でて、視線を自分の方に向けさせた。
「そろそろおやすみになられないと」
自分はここから離れるということを遠回しに伝える。
それは早く言いたいことを言わないと、言えないままになってしまうという意だ。
頭の回転が速いシエルはすぐそれに気が付いたが、唇を噛み締め恥ずかしそうに再び顔を枕に沈めてしまう。
そういう仕草をするときはセバスチャンにとって嬉しいことを考えている時だということは過去に何度も経験済みだ。
少し急かせるように額に口付ければ。
「・・・っ」
驚いたように目を見開くシエルがセバスチャンの瞳に映った。
けれどその驚きは口付けられたこととは別の驚きのように見える。
「坊ちゃん?」
「どうして、お前はそうやって・・・」
そこまで言ってシエルの声は途切れてしまう。
本当に小さな声でも言葉を紡いでくれれば聞き取れるというのに、それを分かっていてワザとしているのだろうか。
「私がどうかしましたか?」
「だからっ・・・」
重ね合わせていた手で頬に触れているセバスチャンの手を払いのけ、頭からシーツをすっぽりと被ってしまう。
真っ白い丸まったものになってしまったかと思えば、中からくぐもった声で言葉の続きを言った。
「どうして、そうやって・・・僕がして欲しいと思ったことを・・・するんだ」
その声はどこか苦しげで切なげで、そしてなんとも可愛らしい。
静寂の中でその声が耳に響き、一瞬にしてお酒が身体中に巡ったかのような感覚に陥る。
セバスチャンは口元に弧を描きながらベッドに膝をつき、真っ白く丸まった坊ちゃんに覆い被さった。
音は立てないがベッドが揺れたことでセバスチャンが覆い被さったことが分かったのだろう、シエルはビクリと肩を揺らしたのがシーツ越しに分かった。
「顔を見せて、坊ちゃん」
「いやだ」
「見せてください」
「絶対にいやだ」
「だって見せてくれないと」
おやすみのキスが出来ないでしょう?
そう囁けば、恐る恐るシーツの中から手が出てきて額のところまでシーツが下がっていく。
そこでシエルの動きは止まってしまい、セバスチャンはもどがしげにそのシーツをそっとより下へと下げていけば、真っ赤に染まったシエルの顔が目の前に現れた。
「温まるには、おやすみのキスを・・・ですか?」
「そういうわけじゃ」
「そろそろ素直になってもいい頃ですよ」
「んン」
意地悪気に言い、そのまま唇を重ね合わせる。
火照った顔はもう温かく、自分の唇の方がまた冷たいだろう。
けれどその唇を離すなんてことはしないで、相手の温度を貰うかのように擦り合わせていく。
「セバス、チャんん」
シエルの息継ぎの為に一瞬だけ唇を離せば名前を呼ばれ、しかしそれには声で答えずに唇で返す。
そして薄く開いた唇に舌の忍ばせれば、震えた手で肩を押さえられた。
それは抵抗か。それともおねだりか。いや、きっと両方なのだろう。
セバスチャンは奥へ逃げている舌を見つけ出し、誘い出す。
擽るように舌で撫でてやれば、鼻から甘い声が漏れ出し始めた。
「はぁ、ン」
息継ぎの為に離して、そしてもう一回。
今度はシエルの方から舌が伸ばされ、自ら絡めてくる。
濡れた音が部屋の中を満たし、聞こえるのは相手の存在だけ。
何度もお互いの唾液を交換して、そして求め合う。
それなのに身体には一切触れないで、シエルも肩に手を添えるだけで首に回してきたりはしない。
だってこれは“おやすみのキス”なのだから。
「・・・随分と、はげしいな」
「坊ちゃんだって」
唇を離すと二人で息を乱しながら額を合わせて苦笑する。
この先はもう予想出来ているのにも関わらず、あえて“おやすみのキス”であるからと線引きするのは意地が悪い二人だからだろう。
どちらがその線引きの向こうへと誘うのか、または踏み出すのか。
素直じゃないのはセバスチャンも同じこと。
「・・・なぁ」
「・・・はい」
零れてしまった唾液を拭ってやりながら返事を返せば、シエルは手を伸ばしセバスチャンの髪の毛を耳に掛けて柔らかく微笑む。
それにドキリとしながらセバスチャンは言葉の続きを待つが、一向に相手は何も喋らない。
けれど髪を耳に掛ける仕草も止まらない。
「・・・ったく。負けました」
結局セバスチャンから一歩踏み出し、シエルの身体を抱きしめた。
“誘う”というよりも“きっかけ”を与えた恋人が酷く憎らしい。
「もう本当に明日は身体が辛いですからね」
「今日のうちに仕事は少し片付けたんだ。少しくらい平気だろう」
「・・・明日文句言うのは無しですよ」
「いや、言う」
言ってやる。
そう言う声は甘やかで、力強くセバスチャンを抱きしめ返してくる。
きっと明日言われる文句も今と同じくらい甘いものなのだろう。
そんなことを考えながら。
「仕方が無い方ですね」
嬉しそうに微笑んで、もう一度唇を重ね合わせた。
さぁ。
“おやすみのキス”ではなくて
“はじまりのキス”をしよう。
end

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