暗い部屋の中。
朝とは違い静寂を身に纏い、月が空を制している。
そんな世界は嫌いじゃない。
目を凝らさないと見えないものと、闇の中に身を投じたから見えるもの。
僕はどちらから見えるのだろうなどと馬鹿げたことを考えてみた。
「なんだか楽しそうですね」
「そうかもな」
ベッドに横たわるシエルにシーツを掛けながら、その闇と同等の存在・・・悪魔が言う。
そんな奴と共に行動しているのだ。闇の世界からしか僕の姿は見えないだろう。
シエルはクスリと笑い答えながら枕に顔を埋めた。
「仕事をしていたので、まだ気が高ぶっているのでは?」
顔を見なくても今奴がどんな顔をしているのか容易く想像できる。
きっと嫌みったらしい笑みを浮かべているのだろう。
その口調は揶揄が含まれていて、入浴後にセバスチャンのベッドに入れとの言葉を無視して仕事をした僕に対する嫌味だ。
けれど今気分がいいシエルはそれに苛立つことなく、首を横に振った。
「すぐに眠れる」
「そう言って、私が出て行った後にまた本でも読むのでしょう」
ため息をつきながら言う言葉にギクリと身を震わす。
枕の下に差し込んでいた手は冷たい鉛と温かい紙に触れた。
今日もこの後温かい紙のお世話になろうと思っていたのに、こう言われてしまったらなかなか手を出し難くなる。
こういうところは鋭くて嫌になってしまう。
「今日は読まない」
「どうでしょうね」
「主人の言葉をたまには信じたらどうだ?」
「信じて良かった試しがないものでして」
「それは残念なことだな」
クスクスと笑いながらひんやりと闇が漂う空気を堪能する。
けれどシーツは自分の熱が移ったのか大分温かくなってきた。
それが素直に心地よいと感じ、シエルは自分の身体が冷えていたということに今気が付いた。
「今夜は機嫌がいいですね」
そう言うセバスチャンの声もいつもより柔らかく感じる。
それは自分の機嫌がいいから都合よくそう感じているのだろうか。
どちらでもいいとシエルは枕に頬擦りをする。
「いつもこうだといいのですが」
「そうなるように努力してみたらどうだ」
「努力してなるのでしたら、とっくに坊ちゃんは毎日機嫌がいいですよ」
それを聞いてそれもそうか、と妙に納得してしまう。
毎日毎日この悪魔は執事として完璧に仕事をこなしている。
最近は頻繁に悪戯をしてくるが、それを抜きにしたら誰もが羨む執事だろう。
まぁ、その悪戯が大きなマイナスを引き起こしているのだからどうしようもないのだけれど。
いや、もしかしたら別の貴婦人達にはそれすらプラスになるのだろうか。
どちらにしても、この悪魔と契約しているのはこの僕だ。
シエルは口元に弧を浮かべたままうつ伏せだった身体をセバスチャンの方に向け、手を伸ばす。
するとセバスチャンは疑問を瞳に浮かべたままだが顔を近づける為に膝を折る。
ほら、こういうところは執事として忠実なものだ。
シエルはその伸ばした手でセバスチャンの頬に触れ、一回優しく撫でたあと決して弱くは無い力でその頬をつまんだ。
「・・・どういうつもりですか」
「面白い顔だ」
いつも澄ましたように整った顔がシエルの手で頬が伸ばされ歪んでいる。
なんとなく悪戯される日々の仕返しみたいな感覚で、すっきりしてくる。
けれど相手は怒ることもなく苦笑しながら、本当に今日は機嫌がいいですね、と言った。
「触るなと怒る貴方が自分から手を伸ばすとは」
「たまにはいいだろう」
「それは私の気持ちを受け止める覚悟が出来たと」
「そこまで話しを飛ばせることが出来るのは一種の才能だな」
「本気で聞いているのですよ」
セバスチャンも手を伸ばし、シエルの頬に触れる。
けれどつまむような真似はせず、優しく撫でるだけ。
心地よかった闇を漂う空気に何か別の意識が入り込んだのを敏感に感じ、シエルはセバスチャンの頬から手を離したが、セバスチャンの手は離れない。
「私は」
「セバスチャン、やめろ」
言葉を遮って、あまり二人きりの時には名前を呼ばないシエルはあえて名前を呼んで止めた。
「今は気分がいいんだ。それを壊すことはするな」
「・・・気分がいいから私の気持ちは聞けないと?」
「違う」
そういうことじゃないと言えば、どういうことですかというような瞳をこちらに向けてくる。
「今は全てが隠れる」
闇に包まれて、日の元に照らされるものは何も見えない。
きっとセバスチャンには意味が分からないだろう。
けれど悪魔は口を挟むことはせず、部屋と同じ静寂を纏って聞いている。
「だから真実なんて必要ないんだ。今の時間だけは」
全て幻想。月の影みたいなもの。
明日になれば消えるものだ。
今の機嫌のいい僕みたいに。
だから、その気持ちを今は欲しくない。
そんな強いもの、今の世界に似合わない。
「・・・けれど貴方はその時間だけ闇を纏いながら歩き回るでしょう?」
「・・・・」
「真実なんて必要ない?そうじゃないでしょう坊ちゃん。真実が必要ないのでなく、貴方そのものが真実なのでしょう?」
月の影とはすなわち存在があるという証拠。
それは月の存在?それとも光を浴びた物の存在?
「儚く繊細な本音は壊れやすい。だから貴方はこの闇に隠しながら本音を紡ぐ。まるで演じているかのように」
明日になっても消えなどしない。
それは私の中に永遠に残り続ける。
まるで月夜にだけ咲く花のように。
「・・・だから僕は貴様が嫌いだ」
シエルは頬に触れている手に己の手を重ね爪を立てる。
「えぇ、知っています」
それなのに目の前の悪魔は優しく微笑むから、酷く泣きたくなって。
だけどそれは闇が隠してくれはしない。この目の前の悪魔から隠してくれない。
もしかしたら完璧な執事なんかより、躾のなっていない駄犬の方が自分には合っているのかもしれない。
完璧なのは綺麗過ぎる。マイナス面があって汚い方が裏の世界に生きる自分らしい。
いつものように嫌味を言えば良かったのに。
何を甘えたことを言っているんだと哂えば良かったのに。
どうしたらいいのか分からなくなる。
「・・・もう、眠る」
「いいんですか?」
その言葉に何がとは問わない。
あんなに気分が良かったのに今はチリリと胸が痛む。
ほら、だから。
真実はいらないって言ったのに。
「坊ちゃん」
セバスチャンは親指で目元を撫でる。
それは涙を拭う仕草と同じで、一瞬自分は涙を流してしまっているのかと思ったがそんなことはない。
頬は相変わらず乾いたままだ。
けれどセバスチャンは何度も何度も流れていない涙を拭っていく。
「やめろ」
「今だけです」
「だからお前のソレは」
「真実だから痛いですか?」
「~~~~っ」
パンっと涙を拭う手を払い落とす。
その音はどこまでも透き通った音で、静寂の中を遠くまで駈けて行った。
「酷い方です」
「嫌というほど知っているだろう」
「不機嫌に戻ってしまいましたね」
「誰のせいだ」
「私のせいですね」
どこか自嘲するような笑顔。
けれどそこにはシエルを哀れむような視線も混じっていて、舌打ちをしながら枕の下に隠していた本をセバスチャンに向けて投げた。
「やっぱり持っていたんですね」
それを軽々と避けてニヤリと笑う。
しまったと思うも、すでに投げてしまったものを引き戻すことは出来ない。
「さて、坊ちゃんが元の世界に戻ってきたわけですし。これで私も自由に話すことが出来るんですね」
「・・・もう貴様と会話する気はない。時間切れだ」
「それは残念」
肩を竦めるセバスチャンを見ながら、傷んでいた胸を感じなくなってくる。
いつもの駄犬に戻ったからかと考えて内心で首を振った。
きっと相手は自分の為に嫌味を言い始めたということに気が付きたくは無い。
「僕はもう眠る」
「じゃぁ最後に1つ」
ヒヤリとした感覚が頬を襲う。
それは先ほどと同じセバスチャンの手。
いつの間に手袋を脱いでいたらしく、黒い爪が丸見えだ。
「・・・なんだ」
払うことはしない。
それはまた戻ってきた闇を漂う空気を感じ始めたせいだろうか。
さっきよりも気分は良くないのに、どうして自分はこの手を払わないのか。
グルグルと考えるが途中で面倒になり、全てを放棄する。
その瞬間。
―――だから真実なんて必要ないんだ。今の時間だけは。
この言葉はただのいい訳に過ぎないことに気が付いた。
「おやすみなさい」
その言葉と共にゆっくりと唇が近づいてくる。
赤い瞳と蒼い瞳はぶつかり合い、これから何をされるのか理解するには十分だ。
けれどシエルは逃げることも文句を言うこともなく、そのまま唇を待つ。
確かめるように一瞬上唇だけ触れ合い、離れ、そしてゆっくりと重ね合わせた。
深くなる口付けにシエルは瞳を閉じて、意識までも放棄していく。
儚く繊細な本音は壊れやすい。だから貴方はこの闇に隠しながら本音を紡ぐ。まるで演じているかのように―――
そうか、コイツは全部解かっていたんだ。
闇に隠すもなにも、コイツ自身が闇なのだから、隠しようが無いじゃないか。
フワフワと漂う意識の中シエルはやっと気が付いたことに苦笑し、無意識のうちに瞳から涙が零れ落ち・・・。
それは唇へと伝わり“おやすみのキス”は塩辛い味がした。
end

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