遠くで耳鳴りがした。
揺さ振られているような錯覚と、頭を割るかのような頭痛。
きっと現実を受け入れたくないとどこかの子供が叫んでいるのだろう。
「―――――」
目の前の男が喋る。
唇が動く様を黙したまま見ていたが、その動きは世界が壊れるときと同じ動きだと・・・なんとなくそう思った。
「それがお前の答えか」
「―――――」
己の言葉に男はまた喋る。
けれど聞こえない。だって耳鳴りが煩いから。
「そうか」
それならいい。
頷いた自分は一体なんなのか。
目の前の男は一体なんなのか。
否、
いま この 状況は なんなのか?
寝
具
に
ミ
ル
フ
ィ
|
ユ
いつもの部屋。
苛立つくらい机の上には仕事の書類があり、己はペンを握っている。
カリカリとペン先が紙を引っ掻く音は嫌いではないが、その音を立てる作業は好きではない。まぁ、仕方の無いことだと諦めているけれど。
「この書類全てに目を通せば本日の仕事はお終いですよ」
あと少しですね、坊ちゃん。
そう笑顔で元々沢山置かれている書類の上に、それ以上の書類を重ねてくるセバスチャン。
これのどこがあと少しなのだろうか。ただでさえ膨大な仕事の量にイライラしているというのに嫌味にもほどがある。
常ならばその嫌味に喰いかかるところだが今はもうそんな体力は残っていない。そんな体力の無駄なことを、そして時間の無駄なことをしているならば残りの仕事に当てなければ。
「・・・・」
「おや、相手にしてくださらないのですか」
相手の嫌味に無言を貫けば、驚いたように瞳を少しだけ大きくし言う。
ぺラリとサインをした用紙を持ち上げ動かす音が部屋に響く音の方がまだ耳に心地よく感じる――――そう感じるほどにセバスチャンの言葉は耳障りだ。
シエルはついに大きく舌打ちをし、手を動かしたまま低い声で「黙れ」と言い放つ。
「貴様の遊びに付き合ってる暇はない」
「別に遊んでいるつもりはありませんよ」
「どっちでもいい。早く部屋から出て行け」
「・・・相変わらずの冷たさですね」
クスリと笑った声は、いつも耳にするものと少し違う。
「・・・?」
若干の違和感を感じつつも目を通し必要なことを記入した用紙を先ほど動かした紙の上へと移動させれば、フワリと嗅ぎ慣れた香りが風のように己の元へと届いた。
それに視線を上げればいつの間にかセバスチャンは己の横に移動しており、こちらを覗きこむかのように腰を屈めていた。
「な、んだ」
いきなりこんな傍に現れたのだ。驚くなという方が無理な話である。
シエルは反射的に身体をセバスチャンがいる反対側へと動かし、けれど驚いたことを顔に表さないように相手を思い切り睨みつければ、セバスチャンは苦笑の表情を浮かべて柔らかく口元に弧を描いた。
「・・・!!」
「少しくらい、構ってくださってもいいじゃないですか」
は?
いま、彼は何と言った。
いや、それ以上にこの優しげな表情は何だ。
それだけでも気持ち悪いのに、その台詞はどういうことだ。
「お忙しいのは分かりますが、そこまで冷たく言う必要もないでしょう」
「・・・貴様、なんのつもりだ」
「・・・なんのつもりと言われましても・・・素直に気持ちを吐露しただけですが」
殺してやるぞという威圧感を込めて睨みつけて問うも、相手は困ったように笑うだけ。
そこに嫌味もなければ、何かを企んでいる様子も無い。だが相手は悪魔だ。人間を騙すなんて朝飯前だろう。契約の際に嘘はつくなと言っているが、やはりそこも悪魔なので“絶対”とは言い切れない・・・執事の美学というものだけは信用しているけれども。
今度は、「じゃぁ何が目的だ」と睨みつけたまま問えば、セバスチャンはパチクリと数回瞬きをし、思わせぶりのように手を顎に当て「そうですね・・・」と呟く。そして此方をまっすぐ見つめて。
「貴方の中に私の存在を植えつけて、たとえ仕事をしていても私のことを何度も考えてしまう状態にさせたいというところでしょうか」
決して仕事の邪魔をしたいわけではありませんよ。
それでも今日一日ずっと仕事をなさり、先ほどのように冷たい言葉まで投げかけてくるんですから、少しくらい構って欲しいと意思表示をしてもいいでしょう?
もし坊ちゃんが一日中私のことを考えて頭から離れなくなったら、私が構って欲しいと意思表示をする必要もなく休憩時間にでも坊ちゃんから手を伸ばしてくださるようになるかもしれません。
「待て、ちょっと待て!貴様だれだ!」
喋り続ける悪魔にシエルは制止をかける。
何なんだコイツは。
こんな奴知らない。
こんな嬉しそうによく分からないことを言う悪魔なんて。
――――私のことを何度も考えてしまう状態にさせたい――――
それすなわち、常にこの悪魔のことを思っているということ。
コイツはそうなって欲しいと、そうさせたいと言っている。
意味が分からない。
ワケが分からない。
だって、
だってそれは。
まるで僕のことを―――――
「私は坊ちゃんのことが好き、ですから」
「はぁぁぁぁ?!」
クシャリという音と、
ガタンという音が同時に上がる。
転がっていったペンはクシャクシャになってしまった用紙に黒い染みをてんてんとつけていき、倒れた椅子はその身を絨毯の海に沈めた。
椅子に座っている状態に合わせてセバスチャンは屈めていたので、叫び声を上げて立ち上がってしまった自分はそんな彼を見下ろしている状態だ。
あぁ、その顔をこの手で潰してやりたい。
「意味が分からん」
「意味なんて必要ないでしょう」
此処にあるのは、
貴方のことが好きだと“言う”悪魔が
存在しているという真実のみです。
セバスチャンは言いながら腕を伸ばしシエルの手を包むようにして握り締める。
その強さはその浮かべている笑みと同じくらい柔らかくて、本当に嫌なら振り払える力だ。
けれどシエルはビクリと反応しただけで振り払うことは出来なかった。
「好きです、坊ちゃん」
「なん、で、急に」
「急ではありませんよ。ずっと心にあった想いです」
それをいま言葉にしたにすぎません。
少し手を引かれたかと思えば、代わりに相手が腰を浮かせ距離を縮める。
引かれた分と縮められた分で互いの距離は一気に近くなった。
いま己はどんな表情をしているのだろうか。
きっと、いや絶対にいつもと同じ顔はしていないから見られたくないというのに身体はまるで凍ったかのように動かない。
「坊ちゃん・・・」
「や、め」
近くなった距離が、もっと縮まる。
その意図に気が付いたシエルは緩く首を振り拒絶をするけれど、きっと全てセバスチャンにバレてしまっているだろう。
その証拠に、ほら。
「嫌なら、逃げて」
その一言で十分だ。
逃げることの無い己の唇に相手の唇が重なる。
柔らかく触れ合うソレは少し冷たく、そして震えている。
それは自分の唇が震えているからだろうけれど・・・きっと自分だけではない。
「ん、」
優しく食まれ、そして離れていく。
コツリと合わさった額は熱く、息も若干乱れているそれは風邪を引いた時と似ていたけれど、もっともっと幸せなものだ。
――――ジ、ジジ――――
「セバス、チャン」
「坊ちゃん」
頬を撫でる手も、笑む表情も甘い。
トクンと胸を叩く己の鼓動も、苛立つほど甘やかだ。
――――ジジ、ザ、ザザ、――――
「好きです」
「ぼ、僕も」
本当は、
ずっとずっとお前の事が、
「す」
――――ブツン――――
「いい加減起きてください、坊ちゃん」
「――――ッ!!」
瞼の向こう側から攻撃してくる真っ白い光にシエルは顔を顰めた。
無意識に視界を隠そうと両手があちこちに動くけれどご所望のシーツは見つからなく、仕方なしに片目を開けてみれば、それは目の前に不機嫌そうな表情を浮かべた執事が手で持っていた。
「お目覚めですか、坊ちゃん」
「・・・・」
執事の言葉を無視して攻撃を受けた両目を手で擦り、回復した瞳で数回瞬きを繰り返す。
「おはようございます」
「・・・あ?」
辺りを見回せばいつもの寝室。
開けられたカーテンの向こうからは攻撃をしてきた太陽が爛々と輝いているし、その光で白いベッドも綺麗に発色しているように見える。
そう、朝だ。
いつもの朝だ。
では、さっきのは?
あの時の、あれは全て、
「ゆ、め?」
そう呟いた言葉を受け止めたのは
あの笑みと同じくらい柔らかいベッドの枕だった――――

PR