あれは、ゆめ。
告白も口付けも、あの感じた幸せも、
ぜんぶぜんぶ夢だった。
(よくあんな夢を見たな)
恥ずかしいとか、
気色悪いとか、
そういう感情よりも先に、ただただ関心した。
どうしてそんな夢を見たのかと。
そして、よくそんな夢を見ることが出来たなと。
今の関係から、
今の感情から、そんな夢が見られるわけがないというのに。
いや本当に、
本当に笑ってしまう。
だって己は、
ゆめで良かったと
心の底から
思っているのだから――――
こ
の
手
が
離
さ
な
い
あんな夢を見た後なのに、彼と接するのが苦だとは一切思わなかった。
顔を合わせ辛いということも無い。
ただ常と同じように話しを最低限して、そして仕事をしていく。
夢とは違って彼は新たな書類を持って来ればすぐに部屋を出て行き、そして己はペンをひたすら動かすのだ。
「坊ちゃんお手紙が届きました」
「そこに置いておけ。あとこれ、メモに書いたことを先方に伝えてから送れ」
「かしこまりました」
セバスチャンは無駄のない動きで素早く手紙を置き、そして受け取り一礼する。
それを、ペンを動かすことは止めないまま視界の隅で見ていたのだが、ふと、とあることに気が付き、もう用はないと部屋から出て行こうとしているセバスチャンに声を掛けた。
「おい」
「如何されました?」
「たしかこの部屋、花を飾ってなかったか?」
手を止め、顔を上げて室内を見回す。
どこにあったかという正確なことは覚えていないけれど、たしかどこかに花が飾られていたような気がしたのだ。
あまり屋敷の飾りに興味を持たない己なので絶対とは言い切れないのだが。
それにセバスチャンは一瞬の間の後、ニッコリと微笑んで「飾っておりましたよ」と頷いた。
「ですが割れてしまいましたので下げさせていただきました」
「・・・・そうか」
その作ったような笑みを浮かべるのは、あの使用人三人が絡んだときが多い。
きっとメイリンあたりが部屋の掃除に来た時にでも割ってしまったのだろう。
「申し訳ございません。明日には新たな花瓶が届く予定でございます」
「別にいい。執務室だし客が入るわけでもない」
花を愛でる趣味も無いしな、と付け足せば、そんな情緒ある行為を坊ちゃんは致しませんねと相手は笑った。
貴様もだろう、という文句は反射的に口から出掛かったが咄嗟に飲み込み、ほっとけ、と再びペンを動かし始めた。
これ以上の接触は必要ない。
「何か御用がありましたらお呼びください」
それを察したのかセバスチャンは扉の前で一礼し、最低限の音を立てながら部屋を出て行った。
パタンと閉じられた扉へと何となく視線を向けるが、それが動くことは無い。当たり前だ。たった今出て行ったところなのだから。
それでも、またすぐに来るだろうと思ってしまうのは夢の影響か。
来て欲しいとは思っていない。それでも来るだろうと思ってしまっている。
それは己の感情は関係の無い想像だ。
(何なんだ、一体?)
こんなことを考えるからあんな夢を見るんだと考えたくも、夢を見てからこのようなことを考えているのだから夢を見た理由には繋がらない。
いや、理由なんてどうでもいい。アレが現実でさえなければ。
そう思っているのに、
(なんだ?)
胸の中に黒いモヤがあるような感じがする。
夢の中でくしゃくしゃになった紙を黒いインクが汚していったような、そんなモヤがある。
けれど形のないそれを捕まえることは出来ないし、何とかしなければいけないという思いもないので、放っておくのが一番だろう。
人間ほど揺さぶられ易いものはいないと、己自身が一番知っているのだから。
「早く終わらせるか・・・・」
無意味な思考は時間の無駄。
そんなものは必要ない。
――――ザザ、――――
「あ?」
唐突に頭の中で響いた雑音に、シエルは額に手を当てた。
気のせいかとも思ったが、再び頭の中で雑音が響き渡る。
――――ザザ、ジ、ソンナモノ、ハ――――
まるで脳に直接何かを叩き込まれているかのようなソレは酷く気持ちが悪い。
痛みを伴うものでも、視界が歪むものでもないが、何かがソレを拒絶していて吐き出してしまおうと躍起になっている。
「っ・・・」
――――ジジジ、ヒツヨウ、ザザッ、ナイ――――
シエルは咄嗟に口元を押さえ、ゲホゲホと咳き込んだ。
だが胃の中のものが出てくることはなく、それ以外のものが出てくる気配もない。
出してしまった方が楽になるというのにと思いつつも、ここで吐き出してしまったらあの執事がやって来てしまうだろう。それだけは避けたかった。
「くそっ」
夢といい、何なんだ一体。
苛立ちに唇を噛み締め、怒りのまま手を振り、横に薙ぐように空気を切る。
机を殴ってしまったら大きな音が立ってしまうからだ。
しかしその瞬間、
――――ガシャンッ――――
何かが割れるような音が耳に響いた。
そして何かが手にぶつかった感触も。
ヤバイと慌てて手の先を見るが、
「なにも、ない」
そこには何も無かった。
割れたであろう物も、何も。
よくよく考えれば当たり前だ、いま自分が座る周りに割れるものなんて1つもなかったではないか。
けれど先ほど確かに割れる音と手にぶつかった感触があったのに。
「・・・・」
シエルは眉を顰めて自分の手を目の前で見つめてみる。
日々執事に整えられているソレは爪の先まで綺麗だ。握力もないため指も細く、少しペンを握るマメがある程度。
傷なんて以ての外だろう。
(そういえば・・・)
あのゆめの中で、
アイツはこの手を
包み込んだんだっけ。
何となく思い出したシエルは手を裏返したり動かしたり・・・・本人は気付いていないが、子供みたいな表情を浮かべながらそれを繰り返す。
そして何かを掴むように宙に伸ばし、手の平を握った。
勿論何かを掴めたわけでも、捕らえたわけでもない。
けれど逆に、
なぜかその宙で誰かに己の手を包むようにして握り締められたような。
そんな感じがした――――