「んッ……」
チュッと音を立てて離れる唇は、嫌味なほど柔らかくて、それなのに目の前にある赤い瞳は意地悪気に細められている。
それをシエルはこれでもかというほど睨みつけるけれど、きっと今の自分の頬は赤く染まっていて迫力なんて欠片もないのだろう。
その証拠に口付けてきた相手、セバスチャンは口元に弧を浮かべてシエルの頭を撫でた。
「そんな睨まないでください」
「お前がことあるごとにく、口付けてくるから悪いんだろうがッ」
「恋人同士なのですから、当たり前でしょう」
その言葉にグッと詰まるものがあり、シエルは逃げるように視線を逸らして若干俯いた。
初めて口付けたのは一昨日。
そして長く口付けを交わしたのは昨日。
そして今日は。
「恋人同士だからって限度があるだろうが…」
朝から何度も何度も。
二人きりになれば、隙ができればと、本当に場所も時間も関係なく口付けてくる。
そのたびに昨日みたいなフワフワした感覚が思考を犯していこうとするので、シエルはそれを必死に引き止めた。
だってそうしなければ。
「坊ちゃん?」
名前を呼ばれ、ハッと顔を上げる。
そこには不機嫌というよりも、どこかこちらを探るような声で。
シエルは何でもない、と首を横に振り、自分を抱きしめているために近くにある胸板を遠慮なくバシリと叩く。
「もう退けろ。これじゃぁ仕事が進まん」
「もう少しいいでしょう」
「よくないから言ったんだ」
「冷たい恋人ですねぇ」
わざとらしくため息をつきながらセバスチャンはシエルの身体に回していた腕を解き、開放する。
そして先ほどまで持っていた…口付ける為に机に置いた書類を手にして一歩後ろに下がった。
「ではその書類が終わったらもう一度口付けの時間としましょうか」
「…もういい加減にしろ」
「別にいいでしょう」
「どうしてお前は」
偽りの恋人にそこまでするんだ。
その言葉は出さずに飲み込む。
それは飲み込みたくて飲み込んだわけではなく、それを口にしようとしたら胸が痛んで咄嗟に飲み込んでしまったのだ。
しかしその言葉は相手に伝わったようで、セバスチャンは一瞬だけ眉を顰め、怒りにも似た感情を瞳に宿す。その雰囲気が昨日のアロイスと会話した時のような感じで、シエルは再度首を横に振った。
「いい。何でもない。この書類を片付けたら呼ぶから、それまで出て行け」
出来るだけ冷静な声音でそう言えば、セバスチャンは暫くこちらを見つめていたが、無言のまま一礼して部屋から出て行った。
扉の向こうから聞こえる、この部屋から遠ざかる足音が聞こえなくなると、シエルは大きく息を吐きながら椅子の背凭れに寄り掛かった。
「くそ…」
舌打ちをしながら唇を拭うのは相手の感触を拭うため。
そして。
手の甲に付けられた赤い印を己の瞳から隠すため。
この赤い印に気が付いたのは今日の朝だ。
我ながら気が付くのに遅いと思うも、そこまで自分の身体を意識したことがないのだから仕方がないだろう。
朝、目が覚めた時に視界に映った己の手。そしてその手の甲に赤い印。起きたばかりの寝ぼけた頭で虫にでも刺されたか?と横になったまま眉を顰めれば。
『それは昨日私がつけたものですよ』
自分を起こしに来た彼の声が耳を擽ったのだった。
よくよく思い出してみれば昨日手の甲にチリリと痛みが走ったような気がする。
どうやらその時に付けられたらしい。
「・・・っ」
その説明をされた時のことも思い出し、シエルは先ほどよりも自分の唇を強く拭った。
彼はその赤い印をつけたのは自分だと言い、そしてそれは“所有印”だとも言っていた。
恋人だけにつけるものだと。
「あと2日間だけなのにか」
その言葉は無意識に零れた。
恋人同士なのは最初から一週間だけと決まっていた。
そもそもこれはただの罰ゲームであり、恋人同士だと言いながらもそこに心はない。
いや、無いはずだった。
「違う…ちがうッ」
考えてはいけない。
シエルは気がついてはいけない自分の気持ちを捨て去るように吐き捨て、唇を拭っていた手でペンを荒々しく掴み、机に置かれている書類に目を通し始める。
考えてはいけない。
―――違う、そうじゃない。
考えたくないんだ。
気付いてしまったらゲームオーバー。
いや、まだそれだけならいい。
ゲームオーバーになってしまったのならばリセットボタンを押せば、もう一度新たなゲームが始まるのだから。
まるでゲームオーバーになった時のゲームなどなかったかのように。
けれど、きっとコレを認めてしまったらゲームオーバーどころか、リセットボタンも見つからなくて。
もう戻ることも、新たに始めることも出来なくなってしまう。
シエルは唇を噛み締めながら書類に書かれている文章を読み、必要なことを書き足していく。
必死に、必死に。
ダメだ。
こんな気持ちは。
こんなことになってしまうのならば数日前にセバスチャンが言っていたように、ただ単純に甘い恋人同士の時間を堪能していれば良かった。
ギリリと奥歯を噛み締め、シエルは我慢できずペンを持っていない方の手で握り拳を作って机をダンっと思い切り殴る。
その音は執務室に響き、もちろん。
「坊ちゃん?」
悪魔の耳にも届いてしまった。
「ッ…あぁ、なんでもない」
扉の向こうから聞こえた声にビクリと肩を震わせてシエルは答える。
なんだか先ほどからセバスチャンに対して“なんでもない”と言ってばかりな気がして苦笑してしまいそうになるが、苦笑できるほど心に余裕は無かった。
「何かありましたか」
「いや、少し寝ぼけただけだ」
だから早くどこかに行ってしまえ。
シエルはそう願う。
音を聞きつけて“主人である”シエルの身を案じて来たのだから、それを口にすることなど出来ない。
彼と自分の間にある契約がどんなものであるか分かっているのに音を立ててしまった自分の方に失態がある。
だがセバスチャンは簡単に引き下がらず。
「部屋に入っても?」
「…別に心配しなくても、もううたた寝などしない」
「嘘でしょう、坊ちゃん」
ドキリと心臓が跳ねた。
一体セバスチャンの指す“嘘”とはどのことを言っているのだろうか。
寝ぼけたこと?それともうたた寝しないということ?
それとも、もっと別の?
「なにがだ」
きっと今の自分の声は震えているだろう。
だがシエルは椅子から立ち上がり、扉の方へと足を進める。
「ぜんぶ」
そう言うセバスチャンの声も震えている気がするのはなぜだろうか。
しかしそれを指摘することなく、扉に近づいたシエルはその扉を手の平で撫でる。
向こう側にセバスチャンがいると思うだけで、どうしてこんなにも胸が痛いのだろうか。
本当は分かっている。
もう全部手遅れなのだ。
それをきっと相手も分かっている。
「どうだろうな」
けれどシエルはそう言った。
扉を撫でた手の甲には“所有印”が存在しているけれど。
自分にはそれも“本物”なのかが分からないから。
「なぁセバスチャン」
シエルは扉越しに言う。
相手の顔は見えない。
その気持ちも。
「あと2日間だ」
でも自分の気持ちはもう見えてしまっているから。
「…そうですね」
そう答えが返って来た瞬間、
涙が零れてしまいそうだった。
―――自分の気持ちから逃げちゃ駄目だ
たとえそれを逃げずに受け止めたって、
相手がそれを受け入れてくれなければ意味はないだろう?
聞こえてきた声に、
シエルはそう自嘲した。

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