指導室はまるで学校という箱庭から切り離されたかのような異質な空間である。
その理由は、指導室だけなぜか木材で作られており、黒板はおろか、教室にある机とも違うもので構成されている。
この指導室は相談室、とも呼ばれ、保険室通いをしている生徒もたまに使うからだろうか。
木材で作られてある壁のせいか、温かい雰囲気が漂ってくるのだ。
しかしそれは中に入る人間によって掻き消される。
自分がセバスチャンと初めて接触したときもこの部屋だったけれど、温かいだなんて全く思わなかった。
そして、今も。
「おいッ!」
シエルはネクタイを強く引っ張るセバスチャンに声を掛けるけれど、相手は無言のまま。
そしてその状態で行き着いた指導室の扉を開け、無理やり押し込まれる。
グイと引かれたせいで身体は前のめりの形となり、中央に置いてある机に倒れるように手をついた。
その隙にセバスチャンはネクタイから手を離し、指導室の扉を閉め、鍵までも閉めてしまう。
「貴様、仮にも教師だろうがっ!」
「うるさいですよ」
眉を寄せながら微笑むという器用な表情を浮かべ、シエルの身体を挟むように左右に両手を机の上に置き見下ろしてくる。
そこには冷たい瞳があり、シエルは無意識に唾を飲み込んだ。
「な、んだ」
「何だはこっちの台詞ですよ。一体どうされたというのですか?」
聞いて欲しいのでしょう?
顔を近づけ、コツンと額と額を合わせる。先ほどよりも近くなった顔にシエルは視線を逸らしたが、それを許さないとばかりに彼は爪で机を叩いた。
「さぁ、話してください?」
コツコツと音が響く。
それはまるで時計の秒針のようで。
それはまるで、己の早い鼓動のようで。
「なにも、ないですよ」
「嘘でしょう」
「嘘なもんか。貴様が勝手に勘違いして帰ろうとした僕を邪魔したんだろう」
が!と、最後の言葉に力を込めると同時に両手で彼の胸を押しやり、その両腕から逃れる。脇をぬけて扉に手を伸ばすが、その前にもう片方の腕をセバスチャンに取られ引き寄せられ、そのまま後ろから抱きしめられるような形になってしまった。
「はぁなせッ!!離せ貴様ぁ!!」
「私が昨日学校に来ない間に何かあったのですか」
「はぁ?!もう勘違いもいい加減にしろよッ」
背中から彼の温かさを感じ、胸が嫌に騒がしい。
それがバレてしまうような気がして、先ほどよりも暴れるけれど、セバスチャンは一向にその腕を離そうとしない。
(くそッ!なんで僕なんかに構うんだ!)
もう放っておいて欲しい。
―――本当に私を避けたいのでしたら優等生を演じる、いや、“元の姿”に戻ることなどせずに、最近の貴方を“演じて”私の前から去るべきでしたね。今の貴方はまるで私に何かありましたと伝えたいようだ。
先ほど言われた言葉が頭に浮かび、ギリリと奥歯を噛み締めて。
怒りのままに自分を抱きしめてくるその腕…手の甲に爪を立てた。
「もう、いいだろう!何が目的だ!暇つぶしか?!そうだな、僕は他の生徒とは違うからな!」
見ていてさぞかし楽しかっただろう!
爪を立てた手の甲から血が滲んでくる。
まるでそれは自分の心のようだ。
痛い。
胸が痛くて。
(いや、もう忘れたんだ)
―――どうやら自分は想像以上に彼に惹かれているらしい。
「煩い、黙れよッ!!」
手の甲を刺す手とは逆の手で自分の顔を覆い、グシャリと髪を握り締める。
「ちょ、落ち着いてください」
シエルの状態がいつもと違うことに気が付いたらしいセバスチャンは慌てるように声を掛けてきた。
僕の心配をするよりも自分の手のことを心配しろよ、などと、どこか冷めた思考がシエルの頭に浮かんだが、それはすぐに消えてしまう。
あるのは、
怒りと。
悲しみと。
嫉妬と。
紛れもない、
好きだという気持ち。
「何なんだよ、何なんだよ一体!!」
どうして。
「どうして構ってくるんだ!」
どうして元の自分に戻れないのか。
「僕は沢山いる生徒の中の、その他大勢の一人だろうがッ」
ずっとずっと独りで生きてきたのに。
「これ以上…ッ!!」
どうしてコイツは。
「僕の中に入ってくるなッ!!!!」
僕自身を、見つけるんだ。
ずっとずっと、独りで生きてきた。
最初からこんな捻くれた性格をしていたわけじゃない。
ただ、誰かと仲良くするのも、そして本心を曝すのも下手だっただけだ。
下手な理由、否、原因は何かあったような気がするけれど、そんなことはもう憶えていない。
気が付いたら独りだった。
気が付いたら孤独だった。
気が付いたら怖がりだった。
気が付いたら、
彼の言う通り、
ただの、弱虫だった。
他人に本心を曝すなんて、弱点を見せ付けているようなものだ。
本心でぶつかり合えば、その分、傷は深いし痛い。
それは酷く恐ろしいもの。
だから、自身に蓋をした。
弱さなど見せない。
本心など見せない。
相手から己を遠ざけ、相手が自分に深く関わろうとしないように。
まるでオセロのゲームで、わざと全てが相手の色になるよう仕向けたように。
その“壁”を作り上げるのは、ゲームの天才であるシエルにとって酷く簡単なことだった。
それなのに。
それなのに…―――!!
このセバスチャン・ミカエリスという教師が全てを壊していった。
長いこと作り続けていた“壁”が、もう壁ではなく捻くれたシエルの“本心”となりかけていたにも関わらず、彼はそれを“壁”だと嗅ぎ付けたのだ。
そしてその壁がなくなってしまえば、自分自身の本心は曝け出された状態でしかなくて。
彼はジワジワと自分の中に侵食していった。
こんなこと、今まで無かったのに。
どんなに優しい言葉を掛けられたって、壁が崩れることはなかったというのに。
どうして。
どうして。
どうして彼にはこんなにも心揺さ振られてしまうのだろう。
けれど、そんな答えどこにも見当たらない。
それでも。
本当は、いろいろ、ちゃんと分かってるんだ。
(帰りに彼が僕を探しに来ることだって、心のどこかで期待していた)
(こうなることを、期待していた)
(元の自分に戻れないのだって、本当は―――)
(元に戻りたくないだけなんだろう?)
「1つだけ、否定しましょうか」
静かにセバスチャンが言葉を紡ぐ。
静かだったにも関わらず、シエルの身体はビクリと震え、反射的に顔を上げた。
「私は貴方のことをその他大勢の中の一人、だなんて見ておりませんよ」
言いながら彼は抱きしめていた腕を解き、コツリと足音を鳴らしながらシエルの前へと回って来る。
周りの壁が木製のせいか、音の響き方が妙にまろやかだ。
しかし彼の声は意地悪げに響くのだから、たまったものじゃない。
「貴方だって知ってるくせに」
セバスチャンはシエルを覗き込むように身を屈め、そして頬を両手で包み込むようにして親指で撫でた。
いや、撫でたのではない。拭ったのだ。
どうやらいつの間にか自分は涙を流していたらしい。
人前で涙を流すなんて、いつぶりだろうか。
しかし恥ずかしいとも気まずいとも思わないのは、その頬を撫でる手が涙を流すシエル・ファントムハイヴを心から受け止めてくれているから?
「貴方は本当に馬鹿ですね」
「…なんだと?」
呆れたような声音に、シエルはほぼ反射で噛み付く。
しかしその声は涙を流したせいでいつもよりも鼻声で、覇気がないものだった。
それにセバスチャンはクスリと笑い、シエルと瞳を合わせて言う。
「貴方は馬鹿で、弱虫で、意地っ張りで、実は泣き虫ですね」
「だまれ」
「でも、私はそんな貴方が…」
そこで彼は口を開くのをやめた。
だが、そんな貴方が、の後に何も続かないわけがないだろう。
シエルは続きを促すように涙で濡れた瞳で先を促すよう睨みつけるが、セバスチャンはニッコリと笑って。
「さぁ、何だと思います?」
濡れた頬に軽く口付けた。
「なっ!!」
一気にシエルは頬を赤くし、口付けされた頬を手で押さえようとするが、頬の前にセバスチャンの手と重なり合ってしまって、慌てて離した。
そんな姿をセバスチャンは笑って、アホも追加しておきましょうか、と酷いことをサラリと言った。
「さて。続きが聞きたいのでしたら、今度は貴方から私に逢いに来てください」
「はぁ?!」
「答えを知っているくせに逃げる餓鬼を甘やかすほど優しい大人ではないので」
「この~~~~」
愉しそうに微笑む顔面を殴ってやろうと、まだ頬を赤くしたまま拳を振り上げるが、簡単にそれは取られ、再び引き寄せられる。
けれど先ほどとは違い、今彼は目の前にいるわけで。
シエルはそのままセバスチャンの腕の中へと引き寄せられ、強く抱きしめられた。
「な!ちょ!」
「待っていますよ」
「っ…!!」
耳の中に息を吹き込むかのように囁かれる。
唇が耳朶に当たっているのはきっとわざとだろう。
「貴方から逢いに来るのを、待っていますから」
怖がりの貴方が、
勇気を出して、
一歩踏み込んで、
私の腕の中へ来るのを。
「私を求めなさい、シエル」
耳の中で、濡れた音が響いた。
「あんの、変態エロ教師がっ…」
指導室でひとり。
床に座り込んだ状態でシエルは今だ耳をこすっていた。
「名前、初めてっ」
思い出すだけでも恥ずかしく、元々赤かった顔をより真っ赤にして俯く。
きっと今は身体全体が赤くなってしまっているだろう。
名前で呼ばれたのは初めてだった。
学校の場では「ファントムハイヴ君」
二人でいる時は「貴方」か「シエル・ファントムハイヴ」
「シエル」と呼ばれたのは、先ほどが初めてだ。
しかも、あんな耳元で。
「卑怯だろうッ…!!」
耳を舌で舐められ腰を抜かしてしまったシエルを置いて、笑いながら出て行ってしまったセバスチャンの背中を思い出しながら、シエルはギュッと瞳を閉じ、そしてまた耳をこする。
きっと暫くはあの声と感触が付きまとうだろう。
誰が大人だ。こんなことをするなんて、あの男の方が子供だろう!
「絶対逢いに行くものかっ」
何度目か分からない言葉を、シエルは吐き出す。
扉の向こうに、その彼がまだ立っていることも知らないで。
温かい雰囲気なんて微塵もなかった指導室が
こんなにも熱くなっているだなんて。
彼は、そしてきっと彼も。
誰も気が付いていない。
end

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