思い出してはいけない。
全て忘れていなくては。
そうしないと。
もう自分は歩けない。
「坊ちゃん?」
「っ・・・!!」
ポンと肩を叩かれたシエルは大げさなほどに肩を揺らし、息を詰まらせた。
声が上がらなかったのは唇を噛み締めていたせいだろう。
代わりに強く噛んだおかげで口には鉄の味が広がり、唇が切れたことを伝える。
「どうなさったのですか?」
「・・・いや、なんでもない」
シエルは振り返ることをせず、高い位置にいる月を見上げて息を吐く。
鼓動はまだ煩く音を立て、息はどこか乱れている。
きっと後ろの悪魔も気が付いているだろうが、それを自分から何事もなかったようにするのは馬鹿らしいような気もしたし、それ以上にそんな余裕も無かった。
ただ今は。
「もう少ししたらまたベッドに戻る。お前は部屋から出て行け」
この後ろにいる悪魔の顔を見たくなかった。
「・・・血の匂いがしますが、どこか怪我をなさったのですか?」
こちらの言葉は無視し、セバスチャンはうっとりしたような声音で話しかけてくる。
まるで血に酔った獣のような雰囲気を背中越しに感じ取り、シエルは内心で舌打ちをしながら、まだ止まることの無い血を舐め取った。
その行為は音も無いものなのに後ろの悪魔に気付かれぬよう随分と気を使った動きのように感じられ、一体どんな秘め事だと自分で自分を哂う。
「別になんてことはない。いいからさっさとこの部屋から出て行け」
「主人が怪我をしたのならば治療するのも執事の役目。見せてください」
「怪我のうちにも入らん」
「しかし」
「執事という役目をいい訳にして私情を挟もうとするな」
「・・・・」
お前は血を見たいだけだろう、と遠回しに相手に伝える。
すると案の定図星だったのかセバスチャンは黙り、部屋には再び沈黙が訪れた。
もう一度出て行けと命令したらきっと今度こそ出て行くだろう。
シエルは命令をしようと口を開けば。
「あぁ・・・唇を切られていたんですね」
耳元で囁かれた言葉。
まだ一度も振り返ってもいないのに、それは正確な答えだった。
なぜコイツは分かったのだと一瞬動揺すれば、ふと窓に赤い光が映り込む。
それに瞳を移せば、そこには悪魔の瞳を輝かせたセバスチャンと目が合った。
「!!」
「おや、やっと目を合わせてくださいましたね」
ニッコリと微笑む顔はどこまでも眉目秀麗で、どこまでも恐ろしいものだった。
その笑顔と赤い瞳。
ここはいつもの自分の屋敷にも関わらず全てが血に染まったような感覚に陥り、咄嗟にシエルは口元を手で覆う。
「人の顔を見て吐き気をもよおすなんて、失礼な方ですね」
クスリと哂った声。
胃が焼けたように熱く何かがせり上がって来るが、それを我慢するべくすでに切れている唇にまた歯を立て噛み付き自我を保つ。
顎を伝って本物の血がポタリと落ちたが、その雫は一切音を立てなかった。
「悪い夢でも見られたのですか」
「・・・・」
「檻の中?それとも、檻の外?」
「・・・黙れ」
「貴方にとっては全てが悪夢でしょう?あの頃の穢れも。あの頃の幸せも」
「黙れェ!」
ダンッ、と目の前にある窓を叩き、叫ぶ。
その握りこぶしは窓に映ったセバスチャンの肩に位置するが、本体は後ろにいるので何の意味も持たない。
シエルは息を荒くしたまま、もう一度窓を殴った。
「貴様には関係ない。僕がどうであろうと、どう足掻こうと。僕の魂を喰らうその日まで忠実に従い、僕を守ればいいんだ。無駄口は叩くな!」
「随分と横暴な主人ですね」
「どこか横暴だ。仕事だけをしていればいいんだから面倒ごとが少ないだろう」
「貴方といる生活は常に面倒ごとだらけですよ」
「僕の魂は安くないということだな」
「・・・まぁ、それだけの価値はありますね」
フワリと何かが身体を包み込みシエルは窓越しに後ろを窺うと、どうやらセバスチャンがシエルにシーツを被せたらしい。
その温かさは軋んだ心に優しく染み渡るが、その中には少量の塩が混じり、シエルの傷口を逆に抉ってくる。
(あぁ・・・ほんとうに、もう)
シエルは少しだけ目を閉じて、口元を歪ませる。
(―――たな)
一番意識していない言葉を心の中で呟いた。
けれどそれは自分の意志が拒否して音にはならず、ノイズと共に消え去っていく。
それはシエルの中には残らず、そして呟いたことすら忘れ去られ。
結局のところ。
嫌でも次の日になれば、太陽は昇る。
ということだ。
「・・・セバスチャン」
シエルは顎に伝っていた血を拭い、振り返る。
灯りも持たない姿は暗闇に紛れ、まるで出会った頃を思い出させて身体を再び蝕ませる。
だがシエルは相手を睨みつけることで己を奮い立たせ、その赤い瞳と対峙した。
すると悪魔は瞳に満足げな光を灯し、はい、と恭しく膝を折る。
「僕は立ち止まらない。誰かを犠牲にしようが構わない。それは貴様も同じだ」
今度は後ろへと移動した月に負けないほどの冷たさを含んでシエルは言い放つ。
「僕は悪魔なんぞに心をやるつもりもなければ、玩具になる気もない。やるのは魂だけだ」
「それで十分ですよ、マイロード」
セバスチャンは手を伸ばし、拭った血が付いた方の手をそっと取ってその血を舐め上げた。
それでもシエルの表情は変わることはない。
「貴方のその復讐にどこまでもお供しましょう。地獄に堕ちても、私は貴方の傍におります」
泣こうが、喚こうが、嫌がろうが。
もう貴方は逃げることは出来ない。
私自信から。
そして。
自分自身から。
「私は殺しても死にませんよ。他の人間と違ってね」
「上等だ」
シエルは口角を吊り上げ、セバスチャンを見下す。
その瞳は憎しみか。強さか。
それとも。
弱さか。
「僕の目的は奴らに僕と同じ屈辱を味合わせることだけだ」
ペロリと乾いた唇を再び舐める。
「楽しみだなぁ、セバスチャン」
そんなシエルの様子を見たセバスチャンは背筋にゾクリとしたものを感じ、
「えぇ。最高の舞台が待っていますよ」
もう一度血を流させるほどの強さをもって、その唇に口付けた。
そうして夜は更ける。
本心を再び闇に埋めたまま。
またシエルは歩き出す。
全てを忘れたふりをして。
そしてセバスチャンは笑うのだ。
その疲れた背中を見て。
甘い甘いその魂を見て。
そして悪魔は哂うのだ。
(Oh, it will be what a beloved person!)
End
****
あとがき
今月のGファン(三月号)を読んで、ドカドカっと書きました(笑)
きっとセバスはシエルが悪魔セバを見てあの事件を思い出しグルグルする姿を
見るのもゾクゾクしちゃう仔だと思いますw
そしてそのグルグルにも負けないようにセバスと対峙するシエルの瞳にも
ゾクゾクしちゃう仔だと思いますw
ようするに、セバスはヤンデレ的な変態でいいと思います(え?)

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