「じゃぁ任せたぞっ」
今度こそシエルはスイスに向けて、小走りで足を進めた。
顔など見なくとも、きっとその頬は赤く染まっているだろうと簡単に想像がつく。
それは心温まるものだが、一旦甘い時間はお預け。
セバスチャンは目を細めながら拳を握り、近くのテーブルへと移動し始める。
何も無いところで一人立っているのは案外目立つのだ。
自分が後ろについているとバレてしまったら、主人の命令に従えなかったことになってしまう。
そして何よりも、シエルの“遊び”の邪魔になってしまうだろう。
セバスチャンは一度もシエルから視線を外すことなくテーブルまで移動し、気配を殺しながら次の動きを待つ。
だが。
「今宵は素敵な舞踏会ですわね」
隣に立っている女性に話しかけられてしまう。
セバスチャンはため息をつきながら、視線は変えずに返事を返す。
「そうですね」
「お一人なのですか?」
「・・・貴方には関係ないでしょう」
いつもならば主人の評価を下げないため、そして変な噂を立てないため、仕事の邪魔をしないために、最低限のマナーは守るが今夜はそんな必要はない。
もし自分がファントム・ハイヴの執事であることがバレているのであれば別だが、そういうこともなさそうだ。
セバスチャンは遠慮なく、冷たく振舞う。
「あら、つれないお方ですわ」
しかし負けじと香水の香りを漂わせながら、セバスチャンの肩に手を触れてくる。
あぁ、この手を引きちぎってしまいたいですね。
しかしそんなことをしてしまっては、会場がどうなってしまうのか目に見えている。
セバスチャンは怒りを抑えながら、シエルを見守り続ける。
今シエルはスイスに偽の女王からの手紙を見せているところだ。
なんとも嫌味な坊ちゃんらしい。
「少しくらいこちらを向いてくれてもよろしいんではなくて?」
騒音が隣から聞こえてくるが、セバスチャンは無視を決め込んで一歩前に進み出る。
シエルの読みが当たるのならば、そろそろ移動し始める頃だ。
そしてもう一歩前に進めば。
――― では伯爵、場所を移動しましょうか?
スイスの声が悪魔の耳に聞こえてくる。
流石は我が主。予想通りの展開ですね。
セバスチャンはニヤリと哂いながらゆっくりそのまま歩き出すと、ガシリと手首を掴まれる。
「ちょっと!レディーに対して失礼じゃなくって?!」
「・・・邪魔なんですよ」
「え?」
セバスチャンは悪寒がする手を強く振り払う。
「下等な人間が、私に触らないでくださいますか?」
「なっ!」
「価値のない人間なんかを相手にしている暇もなければ、相手にする気もないんです」
それでは。
セバスチャンは一度も女性の姿をその瞳に映さずに、シエルたちについて行く。
女性は男性にそんな態度を取られたことがないのだろう。
言われたことに対して文句の言葉は生まれずに、ただ呆然とセバスチャンの背中を見守ることしか出来なかった。
セバスチャンは息を潜めながらシエルとスイスの後へ続く。
会場から出た二人は、どうやら裏庭へ行くらしい。
(人気のない裏庭で坊ちゃんを殺すつもりなのですかねぇ)
セバスチャンはあまりに型どおりの連中に心底呆れるため息をついた。
勝利はすでにシエルの中にある。
(それは坊ちゃんも分かっていると思いますが・・・どうやらまだチェックメイトはなさらないようですね)
シエルは案内されるがまま、裏庭へと進んでいく。
お互いに会話を交わすこともなく、ただ黙々と。
セバスチャンの名前を呼ぶ気配もない。
すなわちそれは、まだチェックメイトをしないということだ。
きっと今頃、いつこのゲームを終わらせようか考えている頃だろう。
(全く。大丈夫でしょうか)
正直、セバスチャンはソレが心配だった。
シエルは簡単なゲームほど難しくしたがる傾向がある。
ただ単純なゲームだとつまらないからだ。
自分が持っているピースを不規則に付け足し、パズルを複雑化させていく。
そして自ら難しいゲームへと形を変えさせるのだ。
そう。あの劉と接触した時のように。
たとえそのゲームで遊んだことによって怪我をする可能性があるとしても、シエルは厭わない。
そして、命を守る悪魔に対して隠し事はまだしも、嘘までも平気でついてくる。
己の主人はそういう“人間”なのだ。
今回も、そうやって遊び始めることが無いとは言い切れない。
(貴方の執事でいるのも、楽ではないですよマイロード)
セバスチャンは苦笑しながらも、どこか愉しそうな笑みを浮かべる。
すると、どうやら裏庭に続く出入り口に辿り着いたらしく、スイスはドアノブを掴みながらシエルに声を掛ける。
「では伯爵、外で申し訳ないのですが・・・」
「別に構わない」
「それはそれは。寛大な心の持ち主で」
スイスは鼻で笑いながらドアノブを回し扉を開け、シエルを裏庭へと導く。
しかしシエルは立ち止まったまま、なかなか中に入ろうとはしない。
「伯爵?」
「お前が先に入れ」
「はい?」
「お前に背を向けるのが嫌なんだ。これくらい警戒していてもいいだろう?」
扉は僕が自分で閉める。
シエルは表情を硬くする演技をしながら言う。
どうやらシエルは自分が扉を閉める間にセバスチャンも裏庭へと来させようとしているらしい。
下僕に対してのフォローをしてくださるとはね。
「まぁ、そうでしょうね」
それくらいならいいでしょう。
スイスはシエルを舐めきっているのか、言い分を許可する。
そして特に警戒もせずに先に裏庭へと足を踏み入れ、草を踏む特有の音を立てながら進んでいく。
シエルもそれに続いていく。やはりこの時も決して振り返ることはしない。
それは契約という名の信用からだろう。しかしきっとそれだけでは無い筈だ。この二人の間にあるものは。
セバスチャンはスイスがシエルに背を向け、なおかつシエルが足を進ませ扉を閉めるその一瞬に裏庭に生えている木々の後ろへと音を立てずに隠れる。その素早さは決して人間の目には映らない。
しかし。
(おやおや)
セバスチャンの瞳にはその姿がしっかりと映りこむ。
ところどころに人の影と気配が木々の裏に紛れ込んでいるのが。
やはりここでシエルを始末しようとしているらしい。
(主人の邪魔はさせませんよ?)
セバスチャンは再び音を立てずにその影の背後へと近寄り、口を押さえながら手刀を首筋に打ち込み気絶させる。
その作業を黙々と淡々とこなし、シエルの障害となりうるべき存在をこのゲームから退出させる。
それはシエルが扉を閉める動作を行う、ほんのわずかな時間で行われた出来事だった。
(後は待つだけですね)
己の主人が、コールを叫ぶその瞬間を。
「やっと静かになりましたな」
言葉通り周りが静かになったことを知らないスイスは振り返りながら仮面を外しシエルに言う。
シエルも頷きながら仮面を外す。
「あぁ、そうだな」
そう答えつつも、どうせこの木々のどこかにセバスチャンがいることをシエルは確信していた。
ちゃんと隙を見て入ってきたことをこの目で確認したわけではない。
けれど、きっとあの悪魔のことだ。人間には見えない速度で入って来ているだろう。
そして自分を殺そうと配置させておいた部下たちも今頃はのびているはずだ。
「それじゃぁ本題に移るとしようか、ファントムハイヴ」
裏庭に移動した途端、先ほどまでの態度が変わり、どこか強気に出てくるスイス。
しかしこの姿こそが彼の本性であると初めから分かっていたので、むしろ先ほどの態度の方が白々しくて見ていられなかった。
裏社会の秩序に対して、その態度はどうなんだと咎める気はさらさらない。
「なぜ貴様は僕をここに呼んだ」
「さぁて、なぜだと思う?」
「貴様のことだ。別に無差別殺人事件をなかったことにして欲しいというお願いではないだろう?」
「そうだなぁ。簡単に言うと、まだ番犬として動き出す前のお前と話しがしたかったのさ」
「・・・たとえ番犬であろうとなかろうと、今の僕ともなんら変わりないと思うがな」
「どういうことだ」
目を細めるスミスに、シエルは哂う。
影に隠れるセバスチャンも主人とスミスの会話に口元に弧を描く。
自ら呼んだとて、シエルの行動は変わらない。
たとえ女王の命などなくとも、スミスはシエルの手に掛かる理由があるのだから。
シエルは高らかに闇を纏いながらその理由を言う。
「裏の人間が表の人間に手を出すのは最大のタブー。もう貴様はファントム・ハイヴの名において始末される人間だ」
この“僕”に対して挨拶をしに来たとき言っただろう?
その言葉を聞いたスイスは唇を噛み締める。
それはもはや自分はシエル・ファントムハイヴに始末される存在だという真実に苛立ったのか、それとも。
「お前さ、前から思ったけど辛くねぇのか?」
小さな少年が抱える物を見て、哀れに思ったのか。
「・・・は?」
放たれた音にシエルは眉を寄せる。
紡がれた単語の意味を理解できない。
セバスチャンも何を言っているんだと数回まばたきをする。
「裏社会の秩序だの、女王の番犬だの、辛くねぇのか」
「貴様、何が言いたい」
「待て待て。俺は本気でそのままの意味で言っているんだ」
ただの単なる疑問にすぎねぇ。
スミスはシエルの威圧感が膨らんだことを宥めるように両手を前に広げる。
「お前は俺たち裏社会の住人にとっては恐れられる存在だ。しかし、そんな存在にも関わらず、その首にはしっかりと鎖がついている」
「・・・」
「俺にはそれが窮屈に見えて仕方がねぇ。嫌な意味でも、いい意味でもなくな。血生臭い世界にいるっていうのは多少なりとも、苦労するもんだ」
「今日だけは仕事を休めと言いたいのか?」
暗に自分を見逃せと言っているのかとシエルは聞く。
しかしスミスは、そういうことじゃねぇと首を振る。
「今日お前を女王の番犬として動く前に呼んだのは、命を下されていないお前と話しがしたかったからだ」
「・・・?」
「もしその命をくだされていない、裏社会の秩序として俺たちを排除しようってぇなら、もちろん俺たちも容赦せず全力でお前を殺す。裏社会ってぇのはそういうもんだ」
だがな。
「実はそんなことをしたくねぇってんだったら、俺たちがお前を助けてやる」
「・・・は?」
再び放たれた予想外の音に、シエルは先ほどと同じ反応を返す。
「今お前は女王の命を受けていない。だったら今のうちにその首輪を外してやるって言ってんだよ」
「それは僕にとって言い逃れにしか聞こえないが」
「この際どちらでもいいぜ、もう」
どこか吹っ切れたような口調になるスイス。
「俺のところに来いよ。お前を自由にしてやる。決して二度と血に染まらないように守ってやる」
「・・・」
「女王の手からも、他の裏社会の住人からも。俺が守ってやる」
だから、俺の手を取れよ。
シエルの前に手を差し伸べてくる。
それを見てシエルは少し目を閉じて、すぐに開き、もう一度その手を見つめる。
二度と血に染まらないように守ってやるだと?
すでに貴様の手も血に染まっていると言うのに、どの口がほざいているんだ。
シエルはうっすらと笑みを浮かべる。
「貴様の手など必要ない」
「なに?」
「別に貴様の手など取らなくとも僕は自分の足で歩いていける。たとえ辛くとも女王の番犬としてな」
たとえそれが己の全てを傷つけることだとしても。
たとえそれが己の自由を奪うとしても。
たとえそれが己の首を絞めるものであっても。
「僕はこの名を背負い続ける」
表の世界も。裏の世界も。
秩序も。番犬も。
どれか1つでも欠けることは許さない。
「ど、どうしてだよ」
スミスは差し出した手で空を切りながら言う。
「そんな・・・どうしてそこまでするんだよっ?!」
まるで己の痛みでも見ているかのような声音。
もしかしたら、一歩道を踏み外さなければ優しい人間になっていたのかもしれない。
しかしそれはもう過ぎた産物。夢の世界の空想と化してしまっている。
(本当に馬鹿な方ですね)
木の陰に隠れながら、セバスチャンはため息をつく。
貴方は坊ちゃんのことを何一つ分かっていない。
―――どうしてそこまでするのか。
それは主人に対してなんて。
「愚問だな」
愚問なんでしょう。
「自分のために決まっているだろう」
シエルは凛と前を見据えながら言う。
血にまみれていながらも、失われない純潔さ。
失せることのない、冷たい輝きを放つ焦点の合う瞳。
あぁ・・・坊ちゃん。
セバスチャン、否、悪魔はゾクリと震える。
「セバスチャン」
そしてコールが響く。
最強にして、最悪な駒の名前。
悪魔の名前を口にする。
「イエス、マイロード」
呼ばれた悪魔は赤い瞳を輝かせて、シルバーを投げた。
****
「少しくらい修羅場になるかと思ったんだが、何てことなかったな」
離れたところで倒れているスミスを見ながらシエルはため息をつく。
スイスの腕にはシルバーが刺さり、血が地面へと流れている。
「殺さなくても宜しいのですか?」
仮面を外しながらセバスチャンはシエルを横目で見やる。
その顔には不満の色がありありだ。
そんな顔をしながらも、よくシルバーを刺すのを腕に留めたものだ。
「殺したらヤードになんていい訳をするんだ」
奴らはここに来ているんだぞ。
本当ならば無き者にしてもいいのだが、それだとヤードが煩いだろう。
「それにしても、よく僕の考えが分かったな」
「ファントムハイヴ家の執事たるもの、主人の呼ぶ声に含まれた意図を察することが出来なくてどうします」
―――セバスチャン。
名前を呼ばれたセバスチャンは、シルバーをスイスに投げつけ突き刺す。
それはちょっとした“痛みを与える悪戯心”
そしてすぐさまスイスにワザとらしく音を立てながら近づき殴り飛ばした。
殴られたスイスは見た目よりもひ弱だったらしく、すぐさま気を失ってしまった。
そして現在に至るのだ。
「本当はあのシルバーを綺麗に眉間に突き立てたかったのですがね」
「・・・ダーツ遊びは後にしておけ」
シエルは手に持っていた仮面をセバスチャンに渡しながら言えば、
ガチャリ。
先ほどシエルが閉めた扉が開く。
誰だと目を細めると。
「ふぁー、ずっと仮面を付けてるもの以外と疲れるものだなぁ」
「貴様は・・・」
「あれ?シエル君?こんなところでって・・・えー!!スイス・アウトニー?!」
仮面を外したアバーラインがシエル、セバスチャン、スイスと、視線をあちこちに移しながら驚く。
それはそうだろう。
休憩しようと思って来たところに、女王の番犬と犯人と思っていた人間が血を流して倒れているのだから。
「えっと・・・何が?」
「事件は全て済んだ。だが安心しろ。今回は女王の番犬として仕事をしたわけではないから餌は要らないとランドル郷に伝えておけ」
「シ、シエル君・・・」
「それからセバスチャン」
「はい」
「会場に他の残りがいないか確かめて来い」
「御意」
一礼しながらセバスチャンはその場を後にする。
その命令を下す声の威圧感、女王の番犬としてのシエルを見ながらアバーラインは複雑な心境になる。
「大変だね」
「何だ」
「子供なのに、そんな姿でいなければいけないなんて」
「子供扱いするな」
ムッとした表情になるシエルを見ながら、アバーラインは苦笑する。
そういう姿は本来の年齢らしいのに。
「辛くはないのかい?」
「・・・」
「そんな残酷な運命を背負って・・・」
「残酷な運命・・・か」
「私達警察と一緒に来たらどうだい?それならば君を」
「ふん。貴様も奴と同じことを言うな」
「え・・・?」
「貴様らに僕が守れるわけがないだろう。ましてや触れることだって僕は許さない」
「シエル君・・・」
親指に嵌められた指輪を撫でる。
一度は壊れた血に塗られた指輪。
それを直したのは。
それを再び嵌めたのは。
「僕の背中を任せるのはただ一人だけだ」
たとえその者が、これから絶対的に僕を殺す相手だとしても。
「坊ちゃん」
まるで自分の影のようにいきなり背後に現れたセバスチャン。
しかしシエルは表情を変えずに、むしろ満足そうに微笑みながら尋ねる。
「どうだった」
「もう他にはいないようです」
「じゃぁ屋敷に戻るとするか」
「宜しいのですか?折角の仮装舞踏会ですのに」
「本気で言っているのか」
「いえ、一応執事として聞いてみたまでです」
セバスチャンも微笑みながらシエルに近づき、軽々とその身体を抱き上げた。
一瞬だけアバーラインとセバスチャンは目が合うが、主人に向けるものとは違い、酷く冷たく感情などない。いやそういうことではない。他の人間の存在など興味がなく空気のように扱っているのだ。この執事は。
それは己の主人への忠誠心からなのか・・・。
アバーラインはどこか別の世界の住人を見ているかのような気分になる。
「じゃぁ、こいつらはヤードに任せたぞ」
「え、あ、あぁ」
「ランドル卿に宜しく」
「では坊ちゃん、参りましょう」
「あぁ」
サクリ、サクリと草を踏む音を立てながらゆっくりと裏庭の向こう、闇の中へと姿を消していく二人。
――― 触れることだって許さない。僕の背中を任せるのはただ一人だけだ。
「そっか」
シエルの言葉を思い出しながら、アバーラインは闇を見つめたままもう一度苦笑した。
****
あとがき
あちらこちらに視点が移動してしまってスミマセン(><;)
セバスとシエルのナイスコンビを書こうと思ったら、どうしても二人の視点が欲しかったんです;;
書くのが凄く難しかったぁぁぁ(涙)!!!

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