「セバスチャン、今までどこにいた?」
シエルは手に持っていた本を枕の隣に置く。
本来ならば、とうに眠りについていていい時間。
しかしどうやらこの少年は、つい先ほどまで本を読んでいたようだ。
何かの時間を潰すかのように。
「名前を呼んだだろう?」
聞こえていなかったとは言わせない、という怒気を含ませながらシエルはセバスチャンを睨みつける。
セバスチャンの名を呼んだのは、今から約1時間前。
しかし彼は部屋にはやって来ず、シエルは来るまでの時間を本で潰していたのだ。
『この部屋に必ず来る』という確信を持ててはいなかったのだが。
「すみません坊ちゃん。少々仕事が詰め込んでおりまして、手を離すことが出来なかったのです」
セバスチャンは申し訳なさそうに頭を下げる。
その手には、夜に必要であるはずの燭台がない。
悪魔の瞳に、闇を照らす光など必要ないから持っていないのか。それとも。
「この僕が呼んだことよりも、優先すべき仕事か?」
「優先順位をつけられる問題ではないかと・・・」
「あぁ、そうだな」
つける必要などない。
「僕の命令以上に優先すべきことなど、ないからな!」
シエルは置いた本をもう一度手に取り、セバスチャンに向けて投げつける。
どうせ避けられると思いながら投げたのだが。
「っつ」
本はセバスチャンの肩に当たり、音を立てて床に落ちた。
「?!」
シエルは避けなかったことに対して目を剥く。
まさか灯りがないから避けられなかったということはないだろう。
避けても避けなくても、その痛みは大差ないとしても・・・。
一体なぜ?
しかしその答えはすぐに導かれる。
「なるほど」
シエルは声が震えないように、精一杯虚勢を張る。
「わざと、来なかったな?」
セバスチャンはシエルの言葉に無言のまま。
これは、シエルに責められても仕方がないことなのだ。
もしも、僕の采配のミスでセバスチャンが来れないような事態になっていたのだったら、
あの本は避けていただろう。けれど奴は避けなかった。
そこから導かれる答えはただ1つ。
『名前が呼ばれていたにも関わらず、来なかった』ということになる。
第一に、僕の采配ミスで『来られなかった』のならば、セバスチャンがそれを指摘するだろう。
しかし、それすらもしない。
これじゃぁ、私はワザとここには来ませんでした、と言っているようなものだ。
どう考えても、あからさま過ぎる。
裏があると考えてもおかしくはない。
けれどシエルは。p
「もう、いい」
自分を拒絶されたことのショックが大きくて、裏などを考える気力も残ってはいなかった。
「だが、契約に逆らうことだけはするな」
「坊ちゃ・・・」
「下がれ」
シエルはセバスチャンの声を遮り、命令する。
きっとこのままでは、情けない顔を晒してしまうこのになるから。
起こしていた体をベッドに戻し、いつもならセバスチャンが掛けてくれるシーツを自分で引っ張り上げる。
またそれに対してのむなしさまで感じ、シエルは唇をかみ締める。
そして、もう僕は眠る・・・という意思表示でセバスチャンに背中を向ける。
「坊ちゃん、私の名前を呼んだということは何かあったのでしょう?」
けれどセバスチャンは問いかけてくる。
下がれと命令したにも関わらず、だ。
「早くこの部屋から出て行け」
「坊ちゃん」
「別に大したことじゃない」
「ですが」
「お前はっ!!」
シエルは我慢が出来なくなって、手で枕を握り締めながら声を荒げてしまう。
「呼んだ時には来なかっただろ!だからもう、その時の用件を聞く権利などないっ!」
瞳から、一粒がシーツに零れ落ちる。
僕がセバスチャンの名前を呼んだ理由。
それは、ただ寂しかったんだ。
ただ、セバスチャンの顔が一目見たかったんだ。
僕が最も愛する人。
僕が愛する人はいつだって皆、手からすり抜けてしまう。
たとえ僕にどんな力があっても、守れないものがある。
本当は、いつだって不安なんだ。
いつか、セバスチャンまでいなくなってしまうのではないかと。
ふとした拍子に。
思いがけないところで。
あの、マダムレットのように。
今日は雨が降り、気温もたいそう低かった。
しかし夜には止み、月が雲から顔を出す。
そう。
あの時と同じ満月が。
僕の愛していた人が
消えたときと
重なった。
だから名前を呼んだ。
この愚かな一抹の不安を消し去るために。
セバスチャンはどこにも行かない。
ずっと僕の傍にいるのだと、安心するために。
けれど。
セバスチャンは来なかった。
「ですが、貴方は私を待っていてくださったでしょう?」
セバスチャンの声が先ほどよりも大きく感じる。
どうやら足音や気配を消して、近づいてきていたらしい。
「もう普通なら眠っておられる時間なのに、貴方は本を読んでまで待っていてくださった」
また声が近くなる。
「来るな」
「私がここに来るまで」
「来るなっ!」
今来られたら、涙を流したことをバレてしまう。
シエルはシーツの中で体を丸め、小さくなる。
「別にお前を待ってたわけじゃなく、寝付けなったからで」
「・・・坊ちゃん」
「もうお前には関係ない、出てけ!」
「坊ちゃん」
「~~~~!!」
声がすぐ後ろに。
それは会いたかった、最も愛する人の声。
どれだけ不安だったか、お前に分かるか。
どれだけ恐ろしかったか、お前に分かるか。
真実を確かめに・・・お前の元へ行く勇気さへ持てなかった僕の気持ちが、お前に分かるものか。
だから。
きっとお前がここに来た時、本当は僕がどれほど安心したかも、分からないんだろうな。
「セバス・・・チャン」
「はい」
「セバスチャン」
「坊ちゃん」
「セバスチャンっ!」
シエルはシーツを剥ぎ、振り返る。
そこには優しい顔の愛しい人。
シエルは溢れる涙を隠すこともなく、セバスチャンの首に抱きつく。
するとセバスチャンもシエルの背中に手を回し、力強く抱きしめ返してくれる。
それだけでシエルの心は満たされ、安堵感が生まれる。
「お前は、最低だな」
シエルは抱きしめ、抱きしめられながら言う。
言葉は痛々しいものなのに、その口元は嬉しそうに弧を描いている。
「悪魔ですから」
「ふっ・・・そうだな」
セバスチャンの言葉にシエルは笑う。
その笑い方は普段のシエルと同じもの。
セバスチャンの腕の中にいると思うと、先ほどの不安や恐れがなくなり、どんどん冷静になってくる。
息を吸えば、体中を巡る愛しい人の香り。
しかし、知っているかセバスチャン。
人間は傷つけられた悲しみが癒されると、次は怒りが心を満たすのだと。
この僕が『お前が今、僕のそばにいるならばいい』だなんて言うわけがないだろう?
「どうして名前を呼んでもすぐ来なかったのかは、聞かない」
「・・・」
「たとえ何かの理由があったとしてもだ」
この悪魔の考えることは分からない。
どうして来なかったのかと聞いたところで、僕の理解範疇を超えるだろう。
少し冷えた頭で考えれば、このセバスチャンの行動には裏があるのだと見えてくる。
先ほど、ショックで考えることの出来なかった裏が。
きっと僕の何かを試しているのだろう。
この悪魔はそういう節がある。
たとえば。
自分に向けられる愛情がどれほどのものなのか。
あぁ、本当に最低だな。
悪魔というものは。
だが、そんな悪魔を選んだのは僕だ。
「いいか、セバスチャン」
シエルはセバスチャンに抱きついていた腕は離し、顔を覗く。
闇によって視界を奪われることのないお前になら、この瞳の契約印が綺麗に見えるだろう?
「これがある限り、僕はお前から逃れられない」
そしてその逆に。
「お前も僕から逃れられない」
そうだろう?セバスチャン。
シエルは挑発するように言う。
するとセバスチャンはうっとりするような声音で、その通りですよマイロード、と囁く。
そして手袋を脱ぎ捨て、同じ契約印を持つ方の手でシエルの瞳を閉じさせる。
「これがある限り、私は主人に縛られる」
「そう、主人は僕。お前は僕のものだ」
シエルは瞳の上に乗っているセバスチャンの手に己の手を重ね、爪を立てる。
傷が・・・跡が付くように、強く。
「お前がどんなに僕を拒絶しようが、僕はお前を手放さない」
シエルは言う。
「その時が来るまで、お前は僕から離れられないんだからな」
お前は僕の傍にいるんだ。
瞳を隠すセバスチャンの手を超えて、また一粒の涙が頬を伝い零れる。
束縛という名の、精一杯の強がり。
「あぁ、坊ちゃん。私の愛しい坊ちゃん・・・」
私は永遠に貴方のモノです。
暗闇に響く嬉しそうな悪魔の声。
どうやらコイツの欲しかった言葉を与えたようだ。
ならば、今度は。
今度はお前の番だ。
「セバスチャン、お前はここにいるのだと証明しろ」
僕のことを安心させろ。
僕にお前を刻み込め。
「お望みのままに・・・」
熟れた果実のような声で答え、そのまま二人はベッドへと倒れこんでいく。
そして溶けることのない闇の中へと、誘われていった。
END
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あとがき
いつもセバスチャンがシエル大好き~!な感じが多いので、たまにはシエルがセバスチャン大好き~!に
させてみようと思ったらこんな悲しいものになってしまったorz
『猫草』という可愛い響きのお題なのに・・・。

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